手がかりは1991年に亡くなった父が生前記した年譜と400字×90枚分に及ぶ直筆メモ。そして、かつて『ホトトギス』等にも投稿していた亀治郎の句集や、辞書への耽溺を綴る『語学日記』くらいだった。
「メモは渋々でしたけど、よく90枚も書いてくれたと思う。ただ勘違いも多く、要所要所に空白があるんで、とりあえずは川崎から歩いてみることにしたんです」
社宅があった場所探しに始まり、横浜一中の跡地から伊勢佐木町の古書店まで父が歩いたルートを探したりもした。その間、関東大震災前後の町の変遷や馬券黙許時代の競馬の話など、氏の筆は方々へ飛ぶ。
「やっぱり本にする以上は、面白く読んでほしい。単に父親への感傷を綴った本なんて僕は読みたくないし、『虹滅記』が素晴らしいのは夭折した父親や自分を育ててくれたお爺さんを、ある程度突き放して書いているからなんですね。
ただ、ジャン・バルジャンが潜ったパリの下水道の歴史を延々書く『レ・ミゼラブル』さながらに長崎の凧上げの歴史なんかを延々書きながらも抜群に面白い『虹滅記』をめざそうにも、そんな力量は僕になかった。結局、分相応でいいと思えるまで、30年かかりました」
昭和14年、30歳で出所した亀治郎はテルと再婚。蒲田・道塚駅近くに住むが、その道塚駅が今はない。戦前の目蒲線は今より南に路線が膨らんでおり、戦後、駅の跡地には松竹蒲田時代の小津安二郎が通った蕎麦屋があったことなどを、目黒氏は膨大な古書の中に発見し、自ら確かめに歩く。
「特に地元の古書店を回ると珍しい自費出版本があったりするし、町は変貌するからこそ、面白いんです」