◆肉体から自由になれない残酷さ
〈バリアフリーからバリア有りにする最近の流行とは逆行する〉この過剰介護は、例えば親切心を誇示するために席を譲る行為とは似て非なるものだ。彼は〈優しくさしのべる一挙手一投足が、祖父のシナプスを切断〉するこの計画に勤しむ一方、自分に〈“使わない機能は衰える”の逆をいく〉身体づくりを課す。椅子に爪先を乗せた〈高負荷の腕立て伏せ〉で筋肉を苛め抜くと、〈地獄のような苦痛も、ある種の快楽へと転ずる。まっすぐにビルドできていることの快感だ〉〈再構築のため、徹底的に破壊しろ〉。
また〈射精の能力は射精でもって鍛える〉とばかり早漏克服に励み、交際中の〈亜美〉にも〈すごいじゃん最近〉と褒められた。しかし、独りよがりな理論武装に走る彼は、祖父の「死んだらよか」も〈他の言葉と同じでたいした意味がないんじゃない?〉という彼女の指摘には耳を閉ざし、その空回りぶりは滑稽という他ない。
「要は彼もそう感じていて、自信がないから他者の意見に耳を貸せないんですね。僕はデビュー以来、被害者意識を前面に出す小説と、重厚なテーマを重厚そうに書いた小説だけは書かないと決めていて、するとどうしてもブラックなユーモアが際立つことになる。介護なら介護という行為を個人レベルまで解体していくと、歪で身も蓋もない話が同時進行していて、それが介護の正体じゃないかなって」
実は軍隊経験に関しても祖父と母の話は微妙に食い違い、〈全然知らない物語が祖父やその血縁者たる自分へも勝手に接続してくるような居心地の悪さ〉を覚えるくだりは、他者の記憶までが出入りする身体感覚を言い当て、ドキリとする。
そしてある日。入浴介護中に尿意を催した健斗は、目を離した隙に溺れかけた祖父の言葉に愕然とする。祖父は彼を責めるどころか、こう言ったのだ。〈ありがとう〉〈死ぬとこだった〉と。
「あんなに死を口にしていても結局は生きたいんだと、頭でっかちな健斗が祖父との関係の中で気づくという、一見ハッピーな話ではあるんですけどね。この祖父は理性では死を願いながら、生存本能に邪魔されて死ねなかっただけかもしれない。生きようとする意志も実は身体的な自動反応かもしれず、結局は肉体からも自由になれない人生の残酷さをそこに見ることもできます。
例えば僕は前作で乳首を切られたがるマゾ男と女王様の攻防を通して、身体の部分的な欠損という厄介な欲望を女王様がどう迂回して、それを受けたマゾ男の人間性がどう回復されるかを書いた。要は人と関わったり、面倒な手続きを踏みながら、人間は人間をやっていくしかないと僕は思うんですね。その手間や面倒を悉(ことごと)く欠いた今、効率重視のシステムに唯一抵抗できる個人的でアナログな砦が、小説だと思うんです」
感動すらパッケージ化され、呑み込みやすい極論ばかりが歓迎される中、その解凍や解体に膨大な手間をかける作家業は「全然オイシクない」と笑う。それでも「作家は小説を書くしかない」と言いきる羽田氏はとかく現代では見えにくくなった人間性を再構築するために、今後も作品を書き続ける。
【著者プロフィール】羽田圭介(はだ・けいすけ):1985年東京都生まれ。明治大学商学部卒。明大明治高校在学中の2003年に『黒冷水』で第40回文藝賞を受賞しデビュー。以来、「走ル」「ミート・ザ・ビート」「メタモルフォシス」で芥川賞候補となり、今年本作で第153回芥川賞を受賞。「又吉さんの『火花』は、僕も『文學界』掲載時に青山七恵さんの勧めで読み、人にも勧めた。いい作品だと思います」。長崎弁は「母が長崎出身なので。純粋に音がよかった」。180.5cm、76kg、A型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2015年9月25日・10月2日号