当時のいきさつについて、馬場は自著『たまにはオレもエンターテイナー』(かんき出版=昭和58年刊)のなかでこう語っている。
日本プロレス史における大きなミステリーといわれる事件から、10年以上の歳月を経ての述懐だった。
「あの事件の発端となったのは、猪木についていた木村(昭政・後援会会長)という男が、日プロの改革案をつくったことにあったんです」
「日プロの幹部の経営方針には、レスラーたちはみんな不満をもっていましたから、オレも、その話を聞いたときは賛成しました」
「しかし、後で聞いてみると、その改革案というのは完全なクーデター案で、芳の里、遠藤幸吉、吉村道明の三幹部をボイコットし、猪木と木村が日プロの実権を握ろうということだったらしいんですね。そのためには、まず馬場を抱きこまなきゃできない。抱きこんでおいて、成功したら、その後に馬場も蹴っ飛ばしてしまえ、というプランだったんですよ」
「上田馬之助をつかまえて『おい、ほんとうのことを話せよ』といったら、上田が全部しゃべったんです」
「これはたいへんだということで(中略)、木村に渡してあった代行の委任状を取り上げたんです」
上田もまた、遺作となった自伝『金狼の遺言』(辰巳出版=平成24年刊)に「墓場まで持っていけない話」としてこう綴っている。
「馬場さんがあまり他人を信用する人ではなかったのは事実であり、猪木さんを最後まで信用しきれなかったのかもしれない」
「馬場さんはもうこの世にいないから、それこそ墓場まで秘密を持っていったことになる」
「猪木さんは、私を睨みつけるようにして席を立った」
「猪木さんだけには、ぜひあの時の真実を知ってもらいたい。私の望みは、ただそれだけだ。寛ちゃん、私は裏切り者ではありません」
事件から40年以上が経過しても、それは上田にとっては「墓場まで持っていけない話」だったのである。
■斎藤文彦(さいとう・ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ――とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。
※週刊ポスト2015年10月9日号