ただ、唐牛健太郎の評伝をこれから発表しようとする者の立場から一言だけ言わせてもらえば、唐牛らが反対運動をしていた時代に生きた日本人には、歴史の等高線がしっかり刻まれていた。
唐牛らが打倒を叫んだ岸信介は、単なる保守反動ではなく、戦前は満州国をつくり、戦後は巣鴨プリズン入りしても自説を曲げず、アメリカと対等な条約を目指した。そういう意味では腹の据わった政治家だった。
唐牛を支援するフィクサーにはフィクサーとしての信念があり、左翼運動をぶっ潰そうとする右翼には日本の将来を憂える“国士”としての誇りがあった。それらの魅力的なバイプレイヤーたちがいるからこそ、唐牛の人生はノンフィクションとして書くに値する。そう私は信じて、いまも唐牛の足跡を追い続けている。
それではSEALDsは、書くに値するノンフィクションになるだろうか。
即断は避けなければいけないが、直感で言えば、あまり面白い作品にはならないような気がする。それは彼らに魅力がないというより、彼らを取り囲む人々の世界に、歴史の等高線がなく平板だからではないか。これでは「物語」が生まれようがない。
それはサヨクに限らない。日本人はいつからアドレナリンを放出させる「物語」をなくしてしまったのだろうか。
※SAPIO2016年1月号