そんな加藤の熱意が伝わり、選手たちは加藤を父のように慕うようになる。激しい練習にも取り組み、チームは力をつけていった。1967年に任期が切れ日本へ帰国することになっていたが、空港で別れを惜しむ加藤と選手たちの姿が新聞で報じられると、「そこまで選手に慕われているのなら」と、さらに1年間の延長が認められた。ペルーチームはその後大躍進を遂げる。
「加藤さんはペルーチームを、就任から3年後の1968年メキシコオリンピックで4位入賞に導き、世界を驚かせました。もちろん一番驚いたのはペルー国民です。弱小といわれた自国チームが強豪国を次々に破っていく姿は非常に痛快だったそうで、今も鮮明に覚えているという話を現地で聞きました」(井原氏)
しかしその直後、加藤を病魔が襲う。ウイルス性肝炎に倒れ、10年以上の闘病生活の末、1982年にリマ市内の病院で夭逝した(享年49)。死の翌日、ペルーの新聞各紙が「ペルーは泣いている」との見出しで大きく報じた。リマでは教会の鐘が打ち鳴らされ、弔意を表わす車のクラクションが一晩中鳴りやまなかった。
葬儀には5万人のペルー国民が参列し、当時のベラウンデ大統領が弔辞を寄せた。かつての教え子たちは彼との思い出の曲『上を向いて歩こう』を泣きながら合唱した。
ペルーの日本人学校で仕事をした経験がある板橋区教育委員会の中川修一・教育長が思い出を振り返る。
「ペルーでは誰もが、加藤さんは『ペルーの恩人』といっていました。ペルーの人々が私を含めた日本人に非常に好感を持って接してくれるのは、加藤さんのお陰なのでしょう」
※週刊ポスト2016年1月1・8日号