《「萩尾さんの、あの作品の背景を描いているのは、誰なの? アシスタントさん? もしよければ、その人を貸してもらえない?」/略/「いえ、彼女は全部自分で描いているんです。精密で空気感のある背景も、こだわりを持っているところは、全部自分で描いています」/「そうなのか~」と、一条さんは、残念そうな声で言っていた》
受話器を置いたときの竹宮はどんな形相をしていただろうか。
このまま萩尾と一緒にいると自分が潰れると考えた竹宮は同居生活の大泉サロンを出ることを決意する。すでに別の部屋を借りたことを告げる竹宮に、なにも知らない萩尾は無邪気にこういう。
《「じゃあ、私も近くにしようかな」》
竹宮は、
《「それはいやだ」という言葉が頭をかすめる。萩尾さんが遊びにくれば、また焦りや引け目を感じるに決まっている。/(中略)/私は大きな才能に置いていかれそうな不安を、これ以上感じていたくなかった。》
ただの売れっ子なら、作品性の高さで自尊心を保てる。知らない人なら、距離を置いたまま嫉妬の炎をたぎらせるだけでいい。仲が良く尊敬もしている親友ともいえる間柄だけに、竹宮の感情は行き場がなく中に積もっていくだけだ。これは地獄ではないか。
一方で『風と木』を巡る編集者とのやりとりでは腹を抱えた。竹宮が予告とは違う、『風と木』の習作となるような少年愛の漫画を送りつけたところ、編集者が怒りの形相で現れた。
《「お前ねー、普通の女の子と男の子が好き合う話ですらわけがわからなくて困ってんだぞ、俺は。それを女の子が好きな、男の子と男の子の微妙な友情って、いったい何なんだよ。ボツだ! ボツ!(後略)」》
自叙伝としては薄い部類に入るが、読者はいくつもの啓示をこの物語から受けることになるだろう。私は読み終えて本を閉じたあと、すぐ開いてラストの5行に赤い線を引いた。