この瞬間、老婦は何を思い浮かべたのだろうか。わずかな呼吸と共に、自らの手でロールを開き、そっと目を閉じた。女医は、老婦の横に立ち、「もう大丈夫よ、もう少しで楽になるわ」とつぶやいた。
15、16、17秒……、そして20秒が経過した時、老婦の口が半開きになり、頭部が右の枕元にコクリと垂れた。まるで、テレビの前でうたた寝を始めたようだった。
2016年1月28日午前9時26分。スイス北西部・バーゼルのとある小さなアパートで、プライシック女医による自殺幇助(ほうじょ)が終了した。
私は、老婦から3mほど離れたソファに腰掛け、一部始終を見届けた。筆を止め、ノートを閉じ、最後にボイスレコーダーの電源を切った。妙に重く感じた腰を上げ、息を引き取った老婦のほうへ数歩、近寄ってみる。
ほんの数分前まで、笑顔でスペイン旅行の思い出を語っていた彼女の顔を覗き込んでみる。確かに死んでいる。苦しみながら、死を遂げたのではない。今、ここで、彼女は自らの血液に毒を流し込み、「他人に見守られながら自殺」したのだ。もちろん、何が起きるかは事前に説明を受けていた。でも、現実に頭がついていかない。
●みやした よういち/1976年、長野県生まれ。米ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論とジャーナリズム修士号を取得。主な著書に『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。
※SAPIO2016年4月号