もう一つだけ、頼みたいことがあった。写真を撮らせてくれないか、と。一瞬の逡巡のあと、それが何かの役に立つのであれば、と承諾してくれた。
ブンヌは正面写真を拒んだ。4か月間で体重が60kgから43kgに激減し、「痩せこけた自分」を写してほしくなかった。それでも必死に上体を起こして、夫の肩に寄り添うように横を向いた。ユーブリンクが彼女を横目に微笑んだ。死にゆく妻との最後の写真で、夫は笑っている。
私が戸惑っていると、
「いいのよ。私たちは、40年間、苦しい時も、いつも笑って生きてきたのだから。最後まで彼の笑顔を見たいわ」
約束した1時間だけの取材時間が過ぎていた。2人だけの最後の時間を、私が奪ってはならない。ユーブリンクとは翌朝、彼女が「深い眠り」に就いた後、朝食を一緒に取ろうと決めた。
ブンヌには、写真や会話内容の使用を許可してもらうためのサインが必要で、これから用意すると告げると、「明日はもう死んでいるから、サインできないわよ」と返された。
返事に困った私は非礼にも、笑ってしまった。そのすぐ後に、彼女自身も微笑んでくれた。私は、荷物をまとめ、2人に手を差し出し、別れを告げた。ブンヌは、ただ、無表情で私に告げた。
「グッバイ」
翌朝8時半、同じアパートの中で、自殺幇助が行われた。私は前回とは異なり、アパートの中に招かれなかった。最期を看取るのは夫だけであってほしいという。午前8時半から10時まで、私は、町中の喫茶店で時間を潰した。
ユーブリンクは、一体どんな表情で現れるか。泣き崩れるか。いや、こういうことだってあり得るのではないか。ブンヌが自殺を断念し、まだ生きているということも。携帯が鳴る。
「ハイ、ヨーイチ、終わりました」
女医だった。いつもの淡々とした話し方だ。私が、指定された喫茶店に向かうと、赤いジャンパーを着た女医がいた。その横に、夫の姿を見つけた。
「すべてが本当にうまく行きました」
やや疲れた表情でそう答えたユーブリンクは、手元にあったチョコレートケーキを頬張っていた。私が想像していたよりも、落ち着きがあるようだった。彼が、女医に話しかけた。
「妻があなたに知り合えてよかったと思っています。この死に方を選んだのも正解だったと、今は考えています」
女医は、その日の夕方にもう一人のスイス人患者を幇助する予定があると言った。カプチーノを飲み干すと席を立ち、喫茶店を後にした。しばしの沈黙の後、私は彼の顔を覗き込んだ。
「私は大丈夫ですよ。こうなることは、覚悟できていましたから」
ストッパーを開けた時、彼はブンヌの手を握り、お互いに涙を流したという。彼女が喉元に異変を感じた時、「これで最後よ」と、夫を見て囁いた。
奥さんに最後、何と伝えましたか?
「きみはこれから長い睡眠に入るんだよ。楽しい人生をありがとう。またどこかで会おう。愛しているよ、と……」
●みやした・よういち/1976年、長野県生まれ。米ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論とジャーナリズム修士号を取得。主な著書に『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。
※SAPIO2016年5月号