──たばこについては、飲食店の喫煙スペースはどんどんなくなり、喫煙者が楽しめるシガーバーのような店も減っている。
廣中:受動喫煙の問題が出ている中で、他人に迷惑をかけないためにも分煙環境を整えることは重要です。しかし、今の分煙環境は良好とまでは言いきれませんね。まるで依存症患者の処理施設のようです。依存的ではない大人の娯楽として楽しめているという前提で、分煙空間をより快適にしても良いのではないでしょうか?
日本の喫煙率は20%ほどまで下がり、このままいくと十数%までは下がるでしょう。いま吸っていない人を喫煙に誘う必要はありませんが、無煙社会を目指す一方で、いまたばこを吸っている人には、「嗜癖」(※注/たばこ・アルコール・薬物などを連用し、やめると精神的・身体的に異常が現れる状態)ではなく「嗜好」といえるように、大人の道楽としての場を提供してあげたらどうだろうかと思います。
アメリカの禁酒法の失敗でもわかるように、ゼロベースで清潔な社会を作ろうとしても、それが窮屈で閉塞的な社会になれば、闇ルートが開拓されて大きな問題になってしまうかもしれません。
──そう考えると、あらゆる行為を「依存症」と一括りにして締め付けるのは、かえって不健康ではないか。
廣中:2013年に精神医学の新しい診断基準が示され、依存症と診断される敷居が下がったのは事実です。もちろん、どんな依存行動でも軽いうちに治療すれば傷が軽く済む可能性はあります。しかし、依存の範囲を際限なく広げていき、「病気」の人をやたらに増やすのはいかがなものかと思います。
どこまでも健康でクリーンな世界を求めるのは無理ですし、人間にはハンドルの遊びみたいに許容範囲があってもいい。健康寿命といいますが、寿命さえ延ばせば本当に心身ともに健康で死ねるのか──という疑問もありますしね。
──先生は著書の中でも、心の居場所のなさを挙げ、「依存症に悩む人が増える背景には、住みにくい社会のしくみがある」と大きなテーマを投げかけている。
廣中:私は政策や経済については門外漢なので、世の中を変える具体的な解決策を持ち合わせていませんが、少なくとも自分が落ち着いて未来を考えられる社会、その願望が持てる社会、そして勉強や労働などの努力が相応に報われる社会にならない限り、いくら教育や治療対策を強化しても、依存症は減らないと考えています。
「決まりは守る」「人から誘われても断る」──こんな心構えばかり説いていても依存症は防げないのです。