◆人間は説明できるほど簡単じゃない
事実関係を整理すれば、片桐は(1)最初の傷害事件の後、(2)営利誘拐で旭川に8年、(3)再び誘拐で岐阜に9年、(4)さらに誘拐で徳島に10年と、各地で事件を起こしては刑務所を転々とし、菊屋の常連客の紹介で就職した矢先、事故で左手を失い、町から姿を消した。
そして(5)仙台のドラッグストアで売上金11万円を奪い、宮城刑務所に服役後、菊屋を訪れる。しかし、なぜ顔に刺青まで入れて全国を渡り歩くのか、本心は語られないままだ。
「特に6つ目の事件の本当の真実なんて、わからないままとも言えます。ただ、少し生意気を言えば、今はみんな物事をわかりたがり過ぎだと思うんですよ。僕も動機が書き足りないとか、伏線の回収が十分じゃないとか、よく読者にお叱りを受けますけど、何でも整合性をもって説明できるほど、人間は簡単じゃない。そのわからないことを考え続けることが、実は意外と大事なんじゃないでしょうか」
その動機を一言で言えば、復讐ということになろう。だが復讐や憎しみといった負の執念と、恩や義理によるプラスの執念を氏は本書に並走させ、世間が累犯者に抱くイメージや、親子や夫婦の絆に関する先入観まで、ラストで覆してしまう。
「唐突ですけど、僕は市川海老蔵という人に特に興味がなかったんですよ。でも奥さんの病気に関する会見で『子供たちは大事、でも妻は一番大事』と言うのを見て、俄然彼が好きになった。愛情の形は人それぞれでいいんだよなって。
そんなふうに人にはいろんな感情の形があることを、見つけてきて提示するのも、小説にしかできない役割のひとつだと思う。それをある程度納得して読んでもらうため、僕はアイデアを捻り出そうと、炎天下でもとにかく歩くんです」
自称「歩いても歩いても、密室トリックなんて1つも浮かばない作家(苦笑)」は、人間心理の隙間に細やかな謎を仕掛け、私たちのありきたりな思いこみに揺さぶりをかける。あくまでその目的は人間という謎の解明にあり、やはりこれは手法こそ違っても薬丸岳の小説なのだ。
【プロフィール】やくまる・がく/1969年兵庫県明石市生まれ、東京育ち。駒澤大学高校卒。劇団研究生、旅行会社勤務を経て、2005年『天使のナイフ』で第51回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。そして今年『Aではない君と』で第37回吉川英治文学新人賞を選考委員の絶賛を得て受賞。他に『刑事のまなざし』『その鏡は嘘をつく』等の夏目信人シリーズや、『虚夢』『友罪』『神の子』等著書多数。178cm、体重は「妻が心配するので、サバを読んで58kg(笑い)」、O型。
■構成/橋本紀子 ■撮影/国府田利光
※週刊ポスト2016年8月19・26日号