興味深いことに吉田の人柄は、電通のライバルである博報堂の社史「HAKUHODO 120」でもうかがい知ることができる。第Ⅱ部第1章《「広告の鬼」VS.「広告の隼」》では、
《1956(昭和31)年、二人の男が相次いでアメリカから帰国した。「広告の鬼」の異名をとった電通の第四代社長、吉田秀雄、明治生まれ(明治36年)の53歳。もう一人は博報堂社長、瀬木博信の長男・博親、昭和生まれ(昭和5年)の、まだ26歳だった》(「HAKUHODO 120」)
と、なかなかドラマチックな書き出しで始まる。瀬木博親はのちに博報堂の第三代社長に就任し、「広告の鬼」の吉田に対して「広告の隼」と呼ばれたらしい。吉田のエピソードが紹介されるのは、博親が博報堂に入社が決まり、父親の博信に連れられて吉田のところに挨拶にいったときの模様である。
《その折り、吉田は「君が広告業界に身を投ずるのは大変結構だが、学校を卒業してストレートにオヤジの会社に入社するのはどうかね。しばらく僕のところへでも来て修行しないかね」と誘ったという。その場は黙っていたようだが、博親はのちに「これから喧嘩しようという相手に、自分の会社へ来ないかといわれて、おかしな人だと思った。今に見ておれという気持ち」だったと明かしている》(「HAKUHODO 120」)
これらのエピソードを通して見ると、吉田秀雄という人物はエネルギッシュで親分肌であり、ちょっと人を食ったようなところもある。なかなか魅力的な人物だ。
吉田が「電通 鬼十則」を発表するのは創立51周年に当たる1951(昭和26)年の8月だ。その前の7月、吉田は全社員に向けて「後半世紀電通の第1年」に当たり、社員に檄を飛ばしている。そのなかに強烈な一節があった。
《仕事の鬼になるということは仕事以外眼中何物もなし、広告の鬼になれということは、広告のためには、それ以外眼中何物もないということであり、仕事のためにはすべてを喰い殺せ、広告のためには何物をも犠牲となし、踏み台にせよということです》(「電通100年史」)
「喰い殺せ」とは、いまの社長訓話にあれば社員全員どん引きしそうな言葉である。だが今の常識で過去を断罪してはならない。1951年と言えば対日講話・日米安全保障条約が調印され、連合軍最高司令官のマッカーサーが解任された年である。美空ひばりの歌声が全国に響き、ヒット商品の明治ミルクチョコレートが甘味に飢えた庶民の舌を喜ばせた。戦後のど真ん中、吉田の「鬼十則」はその中で高らかに鳴った進軍ラッパなのである。