◆「神の手」の孫弟子が語る時計づくり
「テンプの往復回転運動に従ってヒゲゼンマイの渦が膨らみと縮みを繰り返すのですが、その動きに歪みがあると、時計の精度が落ちます。つまり、ヒゲゼンマイは時計の精度を決める心臓部なのです」
そう説明するのは伊藤勉氏(44)。「神の手」と呼ばれた伝説的職人の孫弟子にあたり、今、GSの組立調整師(時計職人のひとつの名称)のリーダーを務める。
テンプを指で回転させ、ルーペで拡大して見たヒゲゼンマイの動きをチェックし、歪みがあれば工具で調整する──こう書くと単純な作業に思えるが、そこには才能と経験に基づく高度な技能が要求される。特殊合金でできたヒゲゼンマイの厚みはわずか0.03mm、渦の隙間の幅は0.1mm。
「髪の毛のように狭い隙間(注・髪の毛の径は平均0.08mm)にピンセットの先端を差し込み、紙のように薄いヒゲゼンマイの、歪みの原因となっている箇所をつまみ、微妙な力加減で曲げ伸ばしを行なって調整します。
力加減は指先の感覚に頼っているので数値化できません。機械でもどういう歪みがあるのかはわかりますが、どこをどのような力加減で、どの程度曲げ伸ばしをしたらいいのか。その総合的な判断と実際の作業は人間にしかできません」(伊藤氏)
極めて微細な部品なので、規定の範囲内の個体差でも精度に影響する。GSに要求される精度の基準(日差マイナス3秒、プラス5秒以内など。国際規格より厳しい)をクリアするためには、最終の調整に人の手が必要になる。
調整にかかる時間は平均2~3分。歪みが複雑だと稀に10~15分近くかかる。“ここぞ”という作業のときには息を止める。呼吸によって起こる体の微かな揺れが指先に伝わり、その動きに狂いを生じさせかねないからだ。
GSの二百数十の部品のうち、最小はヒゲゼンマイの外側の端を固定する「ヒゲ持ちネジ」で、頭の径が0.5mm、総丈0.7mm、重さは0.0005g。傍目には金属の粒のようで、鼻息で飛んでしまう小ささ、軽さである。時計師が相手にするのはそんな世界なのだ。だから、工房に入るには防塵服と防塵帽が必須で、エアシャワーを浴びなければならない。