フィクション作品に対する抗議で思い出すのは、3年ほど前に起きた村上春樹氏の短編小説「ドライブ・マイ・カー」をめぐる問題。彼が「文藝春秋」誌に発表した作品の中に、中頓別町出身の女性運転手がタバコを車の外にポイ捨てするのを見た主人公が、「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思うシーンがありました。
それに対して、中頓別町の町議らのあいだから「そんなことは普通ではない」「事実に反する」という声が上がります。村上氏は「住んでおられる人々を不快な気持ちにさせたとしたら、それは僕にとってまことに心苦しいことであり、残念なことです」などとコメントし、単行本化の際には架空の別の町名に変更しました。
このニュースを聞いたときには、正直「いや、そこは抗議しなくても……」と感じたものです。そう感じた人は多かったようで、町には批判が殺到して炎上状態になりました(それはそれでトホホな展開ですが)。たいへん残念なことに、町のためを思っての勇敢な行動だったはずが、あまりよくないイメージ込みで町の名前が広まってしまいました。
いっぽう今回の「きりたんぽ事件」で、たとえばまゆゆファンが「表現の自由の侵害だ!」「まゆゆ様が『きりたんぽ』を口にしてくれるというのに(言葉にするという意味です)」と反発している話や、抗議した秋田県が責められている話は、今のところないようです。
この違いは、どこにあるのでしょう。もちろん、納得できなことや明らかな侮辱に対しては、きちんと異を唱えたり抗議したりすべきです。受けたほうも、間違っていたと思えば謝って改善し、的外れなイチャモンだと思えば「貴重なご意見をありがとうございました」と言ってスルーすればいいだけ。しかし、「村上春樹事件」の例でわかるように、ネットが発達した昨今は抗議をする側にもさまざまなリスクが伴います。
大人は、いつ理不尽な目に遭うかわかりません。抗議のスキルを磨いておくことは極めて大切。ふたつの事件を見比べてみて、第三者にも納得してもらえて反発を受けない抗議をするには、次のふたつがポイントと言えそうです。
1.「いかに自分がかわいそうか」をどれだけわかってもらえるか
2.まったく悪意がなかった相手を責めるとこっちが悪者になる