たとえば……当時の子供をめぐるさまざまな出来事をネタにするとか。服や玩具等の市場の変化、ベビーフードや哺乳瓶、西洋的情緒教育の流入。親子関係も影響を受けた。遊び場や玩具、お稽古事や塾、詰め込み教育、いじめにおちこぼれと、さまざまな出来事や話題に事欠かなかったのだから。
あるいは、せっかく万博を描いても、諸外国と「キアリス」との関係が今一つわからない。モデルの企業「ファミリア」は、真っ先にスヌーピーのぬいぐるみを販売した企業だったはずです。あるいはヨーロッパの複数メーカーと提携し、日本の子供服メーカーとして国際交流のパイオニアだったはず。そうした企業の個性はほとんどスルーされて、せいぜい家族経営的な中小企業にしか見えなかったのが残念。
つまりこの朝ドラは、『カーネーション』や『あさが来た』で的確に描き出されていた「仕事」と「時代」「人」との緊張した関係・温かな関係をすっとばし、家族とごく身近な仲間の内部へ逃げ込んでしまったのではないでしょうか?
もう一つ付け加えるとすれば、神戸という地域性もよくわからなかった。港が見える丘の風景はあったけれど、神戸という街の個性、匂いや音や質感、独特な雰囲気、神戸人ゆえの暮らしぶり、といったことがどこまで具体的に見えてきたでしょうか?
最終週に、突然死んだ父が現れ、すみれにこんなことを語りました。
「お前らは父さんと母さんのべっぴんや」
つまり、親にとって子=ぺっぴんという、なんともシンプルな物語だった? それを延々半年間見せられたのかと思うと、「なんか、なんかなー」とため息。
史実もたいして下敷きにせず、仕事も時代性も地域性も描かれないのだとすれば。わざわざ「ファミリア」というモデルを示した意義はいったいどこにあったのでしょう? これを機に今一度、朝ドラにおける「モデル」とは何なのかを、よく考えてみる必要がありそうです。