──そもそも、進路に東京藝術大学を選んだのは、どうしてでしょうか?
アボ:そこしか受からなかったんです。勉強ができなさすぎて、ほかの大学は落ちました。当時の音楽学部音楽環境創造科は創設二年目でした。まだ学科の方針が固まっていなかったこともあったのだと思いますが、そこまで難しくありませんでした。いま受験したら、受験科目も増えて偏差値も上がっているので、僕は絶対に入れません(笑)。
──新設学部ならではの、自由な雰囲気がありそうですね。
アボ:ここに入学した学生たちが、どうなるかという正解が先生たちも含め、誰ひとり見えていない。誰も正解を知らない状態の学科にいた、というのは自分の人生の中でとても大きなことでした。教授も学生も、ものすごく尖った人たちが、模範解答のない世界で、自分との戦いを突き詰めながら過ごしていたからです。そこには自由のエクストリームな形というものがありました。
──その自由な発想から、幼稚園や保育園でDJをするという活動に繋がっていくんですね。
アボ:なんで誰もやっていないんだろうと思って始めたのは、自分のDJとしての力を試したかった気持ちからでした。中学生で始めた僕のDJは、本やネットで熱心に情報を集め、昔のことを調べて、お作法や文脈にすごく詳しい優等生のDJでした。大人が喜ぶ絶妙のタイミングで、お約束の曲をかけるたび「よく知ってるね」「わかってるね」といわれて褒められることがアイデンティティでもありました。
──藝大に入学したことで、その優秀さも疑わしくなってしまったのでしょうか?
アボ:褒めてもらえることに疲れていました。そして、僕のDJを聞きに来た人は、ひとつでも新しい出会いがあるんだろうかと悩みました。知っているから盛り上がるのではなく、純粋に音楽そのものの力というのがどこにあるのだろうと考えたとき、お約束が通じない子供に向けてDJをしてみようと考えました。
──そこで、幼稚園や保育園でのDJを始めるんですね。子供たちの反応はいかがでしたか?
アボ:だんだん子供たちの社会や文化みたいなものが見えてきました。子供というのは大人に守られないと生きていけないので、大人の機嫌を常に窺います。だから、DJをしてくれるありがたい人として先生が僕を紹介し、彼らの前へ出ると、楽しそうにするんです。それが、大人に対する彼らにとっての作法、お迎えする礼儀のようなものなんですね。それが、音楽を描けると崩れていきます。