「ハワイでの経験は、私の目を世界に見開かせてくれました。当時、ハワイ大学には64か国の学生が集まっていて、『私は日本人なんだ』という自覚はものすごい目覚めでした」
日本語の授業が好評だったこともあり、当時は「漠然と学校の先生になれればいいなと思っていた」という。
帰国後、櫻井はふとしたきっかけでクリスチャン・サイエンス・モニター紙の記者、エリザベス・ポンド氏を紹介され、助手兼通訳として働き始める。それはまさに運命的な出会いだった。
「ジャーナリズムの世界に入って、最初にポンドさんという優秀な記者と一緒に仕事ができたことは、私にとって本当に好運でした。とくに取材に同行して質問する側と答える側の両方の言葉を通訳することは、ものすごくいい勉強になりましたね。総理大臣、経団連会長、アーティストなどいろいろな人の取材に同行させてもらい、彼女には心底感謝しています」
1971年にクリスチャン・サイエンス・モニターの日本支局が閉鎖されると、櫻井はフリーのジャーナリストとして一本立ちし、アジア新聞財団(PFA)の支局長になってからも精力的に取材し、記事を書き続けた。
大きな転機は1980年、34歳の時。日本テレビ系の夜のニュース番組『きょうの出来事』のキャスターへの起用である。同番組プロデューサーで、現在は櫻井が立ち上げた『言論テレビ』の社長を務める安藤信充氏が振り返る。