「倉本初代はよくも悪くも極道中の極道ですね。鬼頭組への殴り込みは100対わずか8。数次の抗争で柳川組は鬼頭組に死者1、重軽傷者15の被害を与えた。殴り込みのとき倉本初代はまだ16歳で、柳川組では珍しく在日ではなく、日本人だったけど、柳川初代が可愛がり、『わしの実子分(実の子供)や』と言っていたそうです。それと、若いころ一度JR天満駅そばのホテルで寝込みを襲われている。1人が日本刀で斬りつけるのを左手で受け止め、左手の神経を断ち切られた。手はくっついたけど、親指が動くだけで、後4本は動かない。
柳川組は1969年に解散したけど、倉本初代は意地を張ってどこにも属さず、一匹狼でやっていた。そういうとき看板のある者7~8人が束になって襲ってきた。
周りは言いました。『倉本がやられた、ケンカの倉本負け知らずがついに終わった』と。
実際に無茶苦茶強かったらしい。そう言われたどん底から倉本初代は這い上がった。とんとん拍子の人より、いろいろあった人に自分、心惹かれるんです。エリートよりも地獄を見た人、そこから自分の努力で、覚悟で、這い上がった人。そこにやっぱり、惹かれましたね。プラス柳川、かもしれません。柳川次郎という人は自分にとって特別な存在だったんです」
在日ヤクザの柳川次郎が初代を率いた柳川組は山口組の直系組の1つで、2次団体でありながら、警察庁により全国広域5大暴力団の1つに指定され、昭和40年代、集中的な取り締まりを受けて解散した。