それまで外国人に会ったこともない彼女は困惑する。どうしたらいいのか。多少、心が動かされないことはないが、モスクワに着くと、彼女の頭のなかは買い物のことばかり。田舎町では手に入らない食料や衣料品が首都なら手に入る。
夫のために、子供のために、行列に並んで買い物に走り回る。珍しいバナナも手に入れる。これほど、七〇年代のソ連の庶民の暮しを切実に描いた小説は珍しいのではないか。
舞台となっている極東の町は、マガダンという港町。実は、この町はソ連時代、強制収容所があったという。多くの政治犯が送られた。
最後の一篇「上階の住人」は、スターリンの時代、この町の収容所に入れられた高名なテノール歌手の苦難の人生が回想されている。この歌手は、スターリンを称える歌を歌わなかったために収容所に送られた。
若い作者は無論、スターリン時代を知らない。しかも現在、アメリカで暮している。にもかかわらず、マガダン生まれという出自のために過去の暗い歴史を引受けようとしている。
◆文・川本三郎
※SAPIO2017年8月号