◆最後まで「いつもの生活」
旅から帰って1週間後の朝、松野の自宅に酸素状態の異常を知らせるアラーム音が響く。松野が昏睡状態になっていた。泰子と敏和、長女の3人が、ベッドを囲む。延命措置はしない、と本人が希望していたので、穏やかな表情をただ見つめていた。
小さな呼吸音だけが聞こえる、静かな昼下がり──何の前触れもなく、大きな目が突然開いた。驚く3人を見つめた松野は、両手で一人ずつそっと優しくハグをし、小さな声でささやいた。
「ありがとうな」
これだけ言うと、すぐに松野は昏睡状態に戻った。そして夜9時過ぎ、呼吸を止めた。
前日まで、家族揃って食事し、トイレも自分の足で行き、シャワーも浴びた。ベッドに入るのは、夜眠る時だけ。松野は、いつもの生活を最後まで続けた。本人にとっても、家族にとっても、緩和ケアを選択して良かったと泰子は話す。
敏和は、父が使用していた机と椅子に座り、2代目社長として陣頭指揮をとっている。