一連の朝鮮使節志願において西郷は何度も「死」に言及し、聞き入れられなければ自殺すると表明する一方、渡韓後に想定される事態については一言も語らなかった。何事も周到に準備を重ねる西郷としては異例の事態だが、これも体調不良により説明を果たす根気を失っていたとみなせる。
朝鮮使節を異常なほどの熱意で志願した後、太政大臣の三条実美との会談が決まったが、西郷が〈数十度の瀉し方にて、甚だ以て疲労〉したため実現しなかった。自ら望んだ三条との面会に備えて、下剤の服用量は日頃より抑えるか、服用しなかったはずだ。それなのに数十度もトイレに駆け込むということは、少量の下剤の服用でも酷い下痢になるほど西郷の胃腸が弱っていたと考えられる。
◆「躁状態」にあったか
心身異常の兆候は他にもある。8月17日の閣議で三条らにより朝鮮使節の内決を得た西郷は、書簡に〈足も軽く覚え申し候〉〈生涯の愉快此の事に御座候〉などと記し、傍目にも異様なほどはしゃいだ。
さらにその後、腹心の陸軍少佐・別府晋介への書簡では別府をからかった後、〈呵々大笑〉と記した。西郷らしからぬ俗な表現であり、これらの精神高揚は、薬の大量服用で精神に変調をきたし「躁状態」にあったことを示唆する。
この時の西郷は満年齢で40代後半であり、当時すでに老人の域にあり、加齢による免疫力の低下も体調不良に直結したはずだ。
一時は内定した西郷の朝鮮派遣は、その後、海外視察から帰国した岩倉具視や大久保利通の反対で一転して中止となる。これを不服とした西郷や板垣らが一斉に下野したのが、「征韓論政変」の全容である。