日本大学在学中のタイトルは十六個(ワールドゲームズでも金メダルを獲得している)。幕下十五枚目格付け出しでデビューした二〇〇六年五月場所。対戦相手は古市、武州山、上林(大岩戸)の関取経験者や、後に関取となる宮本(剣武)や大想源(千昇)、大型ロシア人若ノ鵬と猛者ぞろいだったが、下田は「一番一番、自分の相撲を取るだけ。他のことは気にしていません」と冷静に語りながら百七十三センチ百二十六キロの大きくない体であごを引き脇を締めてのおっつけ、ハズ押しと基本に忠実な押し相撲で白星を重ね、七戦全勝での優勝をやってのけた。
幕下十五枚目以内で全勝すれば十両昇進という内規がある。史上初の、初土俵から一場所での関取誕生。とんでもない瞬間に立ち会わせてもらっている、と胸がさわいだ。
その場所後の番付編成会議は、通常よりも長時間であったという。幕下東筆頭の上林は五勝、西筆頭の龍皇も四勝と勝ち越し。その二人に下田と、十両に上がる結果を出した力士が三人いた。しかし十両から落ちる力士が、西十両十二枚目で六勝九敗の泉州山と西十両十三枚目で六勝九敗の須磨ノ富士の二人しかいなかった。
龍皇を東筆頭に回す案や、十両八枚目で五勝十敗の隆乃若と下田を入れ替える案も出たそうだが、下田が引き受けることになった“史上初”は、予想された喜ばしいものとは全く逆の方向の「幕下十五枚目以内で全勝したにもかかわらず十両昇進見送り」という残酷なものだった。
この件に関して放駒審判部長は「昇進の権利があるけれど、第一優先ではない」と、北の湖理事長は「本当に気の毒だが『十五枚目格』であって『十五枚目』ではない」と言った。私は、十五・五枚目だと言いたいのか、と首をかしげてしまった。
下田本人は「周りから上がれると言われていたからくやしい気持ちはある。でも決まったことだからしょうがないです」と語ったが、アマチュア相撲関係者からは「学生相撲への偏見が根強い」との声が出ていた。二〇〇〇年に作られた規定の条件が初めて揃った(後の幕内垣添、普天王、豪風もなし得なかった)六年目に「やっぱり無し」とされたのだから。(つづく)
※週刊ポスト2017年11月17日号