小笠原:「持続的深い鎮静」は、殺す目的ではなく医療行為ですから、末期の患者さんに行うときは、ご家族の同意などがあれば、安楽死とは異なり、殺人にはなりません。でも橋田さんが望まれているタイミングは、重篤な症状に“なる前に”ということですよね。
橋田:そうです。
小笠原:そのタイミングで打つと、医師が殺人に問われます。薬を処方する間接行為でも、自殺幇助になります。
橋田:その注射を打ってくださったら、どんなに感謝することか。お医者様は功徳を施すと思ってくださるといいのに。とにかく私としては、安らかに楽に死にたいんですよ。
小笠原:お気持ちはわかります。ぼくだって、死ぬときは安楽に死にたいですから。でも「安楽死」と「安楽に死にたい」では意味が全然違うんです。「安楽死」を行うことは、医師を殺人者にするだけではなく、本人は自殺行為を行うことなんです。対する「安楽に死ぬこと」は、暖かい空気に包まれて旅立つことができる。在宅ホスピス緩和ケアなら、致死薬を打ってもらわなくても、病状が進行したとしても、安楽に死ぬことはできるんですよ。
『なんとめでたいご臨終』にも書きましたが、がん末期の患者さんでも、認知症の患者さんでも、みなさん笑顔で旅立たれ、「笑顔でピース!」と見送られるご遺族もいます。認知症になったらもう終わり、人に迷惑をかけるという考え方も違っています。認知症の患者さんも笑顔で、毎日を過ごしていらっしゃいますよ。ぼくが往診に行ってもわからないのに、通い慣れたヘルパーさんにはニコッと笑う。認知能力が落ちている面があるだけで、すぐにゼロになるわけじゃありませんから。
橋田:笑うってことは、まだ生きる喜びがあるんでしょうね。でも、私みたいな孤独で誰もいないような人が生きていたらかわいそうでしょう。
小笠原:ぼくはひとり暮らしのかたを57人看取りましたが、そのうちの数人はぼくを頼って岐阜でアパートを借り、「先生、私は自宅で死ねるのね」とすごく嬉しそうでした。
橋田:子供さんも全然いないかたですか?
小笠原:57人の中には、そういうかたも半分ぐらいいらっしゃいました。橋田さんは人に迷惑をかけたくないから安楽死したいとおっしゃいますが、医師も看護師も「人」です。人のいのちを助けたいと思っている医師が、殺人行為である安楽死をさせてほしいなんて言われたら、心が折れます。迷惑の極みです。
橋田:ああ、プライドを傷つけてしまいますか。じゃあ、それこそ「人」に迷惑をかけていますね。
小笠原:そうなんです。さっきの注射「持続的深い鎮静」のことを、ぼくは「抜かずの宝刀」と呼んでいて、最後の手段ではありますが、抜かないことに価値があると思っているんです。抜くくらいなら、痛みを取る名医になるべきだ、と。ぼくも今では、100%とは言いませんが、ほとんどの場合、痛みを取ることができますから。
※女性セブン2017年11月30日・12月7日号