◆期間はわずか1週間。寝る間も惜しんで書き上げた
終戦から半年経った1946年2月4日、東京・日比谷のGHQ(連合軍総指令部)の一室に、25人の民政局員が秘密裏に集められた。
発端はその3日前、毎日新聞が一面でスクープした日本政府による新憲法の草案にあった。
《第一条 日本国は君主国とす》
《第二条 天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行ふ》
《第三十条の三 日本臣民は法律の定むる所に従ひ勤労の権利及義務を有す》
戦前の大日本帝国憲法をわずかに“字句修正”した程度の草案に、最高司令官のマッカーサーは失望。
「我々の手で、新しい憲法を作らなければならない」。そう宣言して、25人の局員に新憲法の草案作りを命じたのだった。
この時、都内の図書館を巡り、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエトと世界各国の憲法をかき集めた1人の女性民生局員がいた。ベアテ・シロタ・ゴードンさん(享年89)というアメリカ人女性だった。
彼女の父親は有名ピアニストのレオ・シロタ。1928年に家族で来日し、5才から15才まで日本で暮らしたベアテさんは、日本文化に精通していた。
アメリカに帰国後、大学で日本語のほかスペイン語、フランス語など6か国語を学び、米誌『タイム』の調査記者から占領軍に志願。GHQに配属され、わずか22才で憲法草案のメンバーに抜擢された。
「彼女は、日本の伝統的な『家制度』によって女性が虐げられ、参政権もなく、結婚も離婚も自分の意志でできずに苦しむ現状を見てきた。『女性に人権がないと日本は平和になれない』という強い想いを持っていました」(清末さん)
戦前の大日本帝国憲法には、女性の権利について定めた条文は一つとしてなかった。民法も同様で、男性戸主の配下に女性がおり、財産権も居所指定権もなし。刑法の「姦通罪」に至っては、妻が行った場合は夫の告訴によってその妻と相手男が処罰されたが、夫が行った場合、相手が人妻でない限り処罰されなかった。
封建的社会で過酷な人生を歩む女性を目の当たりにしてきたからこそ、ベアテさんは「男女平等」の文言を新憲法の条文に入れるべく奮闘した。
ベアテさんと生前親交があり、彼女の半生をテーマに舞台『真珠の首飾り』を制作した演出家のジェームス三木さんが語る。
「民生局員に与えられた草案作りの時間はわずか1週間。民主主義の土壌のないところに人権意識を植えつけるのですから、それは大変な作業だったと思います。彼女は女性の権利と教育上の権利の部分を担当し、寝る間も惜しんで草案を書き上げました」