しかし、実際のところ私自身は、まったく裏切られたとは解釈していない。向こうの理屈がいくら間違っていたり、倫理的に外れていたりしたとしても、相手には相手の論理があるわけで、こちらがとやかく非難できない。私はライブドア事件を、そう総括している。
そもそも裏切るようなヤツは、身近に置いてはいけない。社会人は、人への信頼度を高めるより、人間性を精査する「審理力」を磨く努力をすべきだ。それでも裏切られたとしたら?
忘れることだ。過去は過去。どうにもならない。久しぶりに、かつての部下の話をしたけれど、聞かれなければ一秒も彼らのことを思い出さないし、気にかけてもいない。それでいいのだ。
裏切られたとか、過去にされた仕打ちをいつまでも恨むなんてバカらしすぎる。ネガティブな過去だからといって、記憶は書き直せないのだから、消去して、新しい人間関係を築いていく方がよっぽど建設的だ。
◆仕事の人間関係は、利用できるかどうかを基準にする
逆に、世の経営者や管理職たちは、「部下は絶対に裏切らない!」と思い込んでいる人が多すぎる。何の根拠があるのだろうか。いつか裏切る、状況が変われば離れていくと考える方が、自然だろう。
誤解されてはいけないが、誰のことも信じるなと言いたいわけではない。信用を基準に付き合う相手を決めるのは、いいと思う。だが信用できるヤツかどうかというのは、感情的なバイアスがかかっているので、信用そのものに裏づけはないことも覚えておきたい。
仕事の人間関係は、利用できるかどうかを基準にする。人付き合いにおける精神面でのダメージをできるだけ減らすためには、有効な方法だ。私は、人は常に変わっていくものだと思っている。裏切るという行為は、人はいつも同じ状態にはないということの証明だ。