「大谷家の教育方針は、“決断は本人に委ねる”というものでした。実際、幼稚園から続けていた水泳を小学5年生でやめて、野球一本に絞ったのも本人の決断です。親が口を出さずに子供の考えを尊重することで、大谷選手の“考える力”が養われました」(佐々木亨氏)
地元の水沢リトルリーグで野球に全力投球する小・中学生時代を送った大谷。当時彼を指導していた水沢リトルリーグの佐々木一夫監督が当時を振り返る。
「1を教えると5を理解するような吸収力と、どんな格下の相手でも絶対に手を抜かず、全力を出すところが印象に残っています。一貫して野球に対して貪欲で、芯を持っている子だと感じました」
中学卒業後の2011年、野球の強豪である花巻東高校に入学した。
「高校時代に恩師となる佐々木洋監督と出会い、目標設定の大切さを知りました。高校の先輩で現西武ライオンズのエース菊池雄星投手への憧れもあった大谷選手に対して、佐々木監督は『誰かを目指すとその人以上にならない。超えたいと思わないと、その人を超えることはできない』と諭した。そして、『お前なら絶対に160km出せる。そのために目標を163kmにしよう』と高い目標を設定して、野球に取り組ませました」(佐々木亨氏)
大谷が高校時代に書いた自分の未来予想図には、「18才メジャー入団」の文字が躍っている。その言葉通り、大谷は高校卒業後、「即メジャー挑戦」を表明する。だが、それに北海道日本ハムファイターズが「待った」をかけた。
「メジャー志向を明らかにしていた大谷をドラフトで強行指名した日ハムの栗山英樹監督らは、何度も彼のもとに足を運んでさまざまな資料を示して、『大谷翔平の成長には〇〇が必要だ』と語りかけ、投打に挑戦する『二刀流』を提案し、彼の夢を真剣に考えた。そして、熱意を持って新たな道を教えてくれた日本ハムに、大谷は入団した。当時、メジャー球団は大谷を『投手』として評価していたので、卒業後すぐ海を渡っていたら二刀流は実現しなかったはずです」(同前)
日本ハムが大谷獲得の交渉で使った言葉が、「急がば回れ」だった。
「10代で渡米してマイナーリーグを経てメジャーに挑む過程も魅力ですが、まずは日本でやってからアメリカへ行ったほうが成功する確率が高く、結果的に長く活躍できるという話も日本ハムはした。その姿勢や考えも、彼が日本のプロ野球へ進むきっかけになったと思います」(佐々木亨氏)
この決断は幼い頃から自ら物事を決めてきた大谷だったからこそできたものだろう。そしてこの決断こそが大谷を野球界だけに留まらない“国民的大スター”へと押し上げたのは、ご存じの通りである。
※女性セブン2018年5月10・17日号