◆最低限の仕事しかしなくなる公務員
話を冒頭の例に戻せば、重箱の隅をつつくような管理を行い、厳罰主義を貫いていると、表面上の不祥事は減るかもしれないが、徐々に職員は萎縮し、最低限の仕事しかしなくなる。
実際に職員への管理が厳しくなった自治体では、窓口の応対が杓子定規になり融通を利かせてくれなくなったとか、職員が休日の地域活動やボランティアに参加しなくなったという声が聞かれる。
ちなみに私はアメリカで各地の自治体を調査した際、職員が勤務時間中に喫茶店に立ち寄ったり、ちょっとした買い物に出たりすることは許されないかをシティマネジャー(市長や議会から市役所のマネジメントを委託された責任者)に尋ねてみた。するとほとんどのシティマネジャーから、「自分の仕事をこなし、役割を果たしている以上、問題はない」という答が返ってきた。
つぎに、些細な落ち度や家族の不祥事などで職を解かれたケースを考えてみよう。責任ある地位を追われた人の中には、余人をもって代えがたいほど実力のある人が少なくない。しかしいくら有能だろうが、実績があろうが「微罪」でもアウトである。
そして彼らがつぎつぎと淘汰されれば、人材が無尽蔵ではない以上、能力はともかくクリーンなだけがとりえの人しか残らなくなる。
◆グローバル競争の大きなハンディに
このように行き過ぎた潔癖主義は軽視できない副作用をともなうにもかかわらず、その副作用は長期的にじわじわと生じるため、表面化しにくい。そのため、どうしても目に見える規律正しさや几帳面さのほうが優先されてしまうのである。
海外の主要国と比べたわが国の労働生産性や国際競争力は、1990年あたりから大きく低下している。企業の利益率も欧米企業などに比べて顕著に低い。正社員は突出して長い時間働いているにもかかわらずだ。
その原因の一つがこの潔癖主義にあると考えて間違いなかろう。これから本格的なAI時代に突入すると、人間に求められる要素も、働き方もこれまでとは大きく変わってくる。そして行き過ぎた潔癖主義は、わが国がグローバル競争を勝ち抜くうえでいっそう大きなハンディになる。
大切なのは、厳しい基準を追い求めることと、それがもたらす弊害とをつねに比較考量し、バランスをとることである。少なくとも、行きすぎた潔癖主義に異論を唱えることを許さないような風潮は改めなければならない。
では、何にその役割を期待できるのか。はっきり言って、それは「外圧」しかないと思う。わが国の歴史を振り返ってみても、歪んだ社会を正したのはたいていが「外圧」である。グローバル競争の激化や外国人労働者の増加、海外からの厳しい批判などを奇貨として、際限なき潔癖主義に歯止めをかけるべきだろう。