しかし、習氏が明沢さんを同行させることを側近に指示したのは出発のわずか3日前で、側近らにとっては寝耳に水だった。このため、明沢さんのホテルの手配や仕事の内容、その日程などの手配が出発ぎりぎりになっても決まらず、ぶっつけ本番で臨んだという。
また、訪問国5カ国中4カ国がアフリカ諸国という点でも、移動や宿泊施設が整備されていないことも考えられるほか、衛生面での懸念もあり、丁薛祥・党中央弁公庁主任(党政治局員)は最後まで明沢さんの同行に難色を示したという。
しかし、最終的に明沢さんが習氏に同行することが決まったのは習氏の次のような一言だった。
「もし、私が北京を留守にしている間に、クーデターが起きたら、明沢は間違いなく殺されてしまうだろう。そうなったら、お前は責任はとれるのか」
これが真実とすれば、7月の北京は政治的に相当不穏な空気が流れていたことになる。英経済紙「フィナンシャル・タイムズ」は習氏が7月半ば、世界銀行のジム・ヨン・キム総裁と会談した際、「ずっとウトウトしていた」ほか、国連教育科学文化機関(ユネスコ)のオードレ・アズレ事務局長との会談で、習氏は同氏のことを「何度も世界貿易機関(WTO)事務局長と言い間違えた」として、習氏が今回の外遊直前の時点で、「目に見えて疲れていた」と報じている。