本書が扱う題材も、中身の〈透け感〉を逆手に取ったふなっしーや、公私の別をあえて超える覆面レスラー、スーパー・ササダンゴ・マシンとの対談まで幅広い。その点、第二部冒頭に引用された能楽師・観世寿夫の言葉は象徴的だ。
〈能面、殊に女面が小型に作られていて、演者の素顔、たとえば顎などが少しはみ出てみえることはとても大切なのかもしれない〉〈役者の肉体と無機的な木彫品である面との反発のし合い、闘い合いが、そこに象徴されるからである〉
「僕は集中力がないのか、能面からハミ出た役者のシワとかに目が行っちゃって(笑い)。本当はそれが気にならないくらい没頭するのが理想の観客ですが、その役と中身との葛藤をむしろ面白く思う体質なんです。
『ゴジラ』も、着ぐるみの中に人間がいてこそ僕らは妙味を感じる。またTVドラマの感想を話すときも役名で呼ばずに『ガッキーがかわいかった』などと『中の人』である役者の名前で話す。だとすれば、役者も人形と言え、人形論は誰しもに身近なテーマなのです」
〈リカちゃんはなぜ太らないのか〉、〈なぜ人形とホラーか〉等々、目次一つにも疑問形を多用する本書では、人形が孕む無尽の可能性を感じさせ、その先に見据えるのは他でもない、人間だ。
欧州の人形劇も、かつては人間が演じると支障のある政治的内容を人形に演じさせて発展した。日本でも戦後、赤狩りに遭った劇団が草創期のテレビに活路を求め、多くの名作を生んだ。