穏やかな語り口で淀みなく語りかける大林は、1月9日に81歳を迎えた。移動の際は車椅子に頼ることも多く、かつてのように自由に身体が動くわけではない。それでも昨夏、故郷の広島・尾道で新作『海辺の映画館─キネマの玉手箱─』の撮影を約1か月半行ない、10月には『花筐』の上映会で北海道・芦別まで出向くなど、驚くほど精力的に活動している。
「できれば、飛行機や新幹線にはあまり乗りたくない。本当は、在来線で行きたかった。時間と距離がシンクロしていないと気持ち悪いんですよ。飛行機を使うと、浜松より九州のほうが近いでしょ? 地図はどうなっているんだといいたくなるんですよ」
誰もが素直に受け入れることにも、違和感を持ち続ける。思えば、大林は社会の通念を打ち破りながら人生を歩んできた。1960年代半ばから1970年代にかけて、CMディレクターとしてチャールズ・ブロンソンの「マンダム」などを演出し、ハリウッドスターが日本のCMに出演する足掛かりを作った。その手腕が認められ、1976年に東宝から映画監督の依頼を受ける。
助監督から監督に昇格する業界のルートを歩んでいないことで反発を買い、映画『HOUSE』の公開は立ち消えそうになる。しかし、物語のコミック化やラジオドラマ化などメディアミックスを自ら仕掛けて一大ブームを巻き起こし、映画化に漕ぎ着けた。
「他の業界の人間が、いきなり監督を務めるなんてありえなかった。日本映画史上初めてです。でも、壁を感じたことはありません。いつも楽しかった」
『転校生』、『時をかける少女』、『さびしんぼう』という“尾道三部作”で映画監督としての地位を確固たるものに。1989年には“世界のクロサワ”黒澤明監督出演のCM演出を、本人から直々に依頼された。