明石南から日体大に進み、保健体育の教職をとって、母校の明石南や高砂南でコーチをした後、明徳義塾高(高知)のコーチとして、名将・馬淵史郎監督に師事。その後、明徳義塾中学監督となってから、狭間監督は指揮官としての才能を開花させた。中学軟式の全国制覇の連覇は史上初であり、計4回の日本一の実績のある高校野球の指導者というのも異色の存在だ。
──中学野球の経験が、高校野球に活かせる点はどこですか?
狭間監督「監督として、6年間で5度、全国中学校軟式野球大会に出場して、4回の日本一を達成しました。基礎は間違いなく、同じです。『備え』、『間』、『タイミング』、『バランス』の4点は一緒です。この4つを理解して、使えるようにして、応用を利かせていくのは一緒で、変わることはありません」
──馬淵野球を、どのように理解されているのでしょうか。
狭間監督「5年間、馬淵監督と一緒にやらせて頂きました。目標とする人であり、私の理想の監督像です。馬淵監督は、言い方を変えることで答えに近づけてくる事と、出来ないことは出来るまでやり続ける精神を、練習の中でこれでもかというぐらい継続させます。全寮制ですので、何かあれば、自らの部屋に呼び、一緒に話をして、コミュニケーションを図ることも徹底しています。甲子園に出場した監督を何人も見てきましたが、指導力の点ではやはり馬淵監督が一番長けていると思います」
──馬淵監督の教えの中で、一番継承したいものは何ですか?
狭間監督「切り口です。ひとつの事をマスターするだけでも、切り口が違えば、表現の違いが出てくるのを見習いたいです。引き出しの数は経験値と探求心、模倣が物語ってくると思います」
──馬淵監督の印象的な言葉はありますか?
狭間監督「『最悪の状態で、最善を尽くす』です。どんな苦しい状況でも、どんな劣勢でも最善を尽くせば、何か突破口があると思っています。本当に苦しくて、負け続けたけれども、『今やらねば、いつやるねん』とずっと言っています。与えられた状況で、最善を尽くそうとすることで得られるのが結果です」
──甲子園の舞台で明徳義塾と戦えたら、最高ですね。
狭間監督「毎年、練習試合をしますが、明徳義塾に行くとゴミ拾いから始まり、夜食事をする時まで、今でも学ぶものが多く、身が引き締まる想いです。2016年の選抜の抽選会で、明徳義塾の横が空いていたことがありましたし、うちが勝って、明徳義塾が負けてしまったりして、まだ一度も対戦できていません。あの舞台で是非、馬淵監督と戦いたいです」
2005年、明石市は、「野球を通じた町おこし」を実施するため全国初となる野球指導者の公募に踏み切り、9人の指導者候補から選ばれたのが狭間監督だった。2006年にコーチに就き、翌年には監督に就任。野球の実績も右肩上がりで、昨年のドラフトでは松本が埼玉西武に入団し、同校初のプロ野球選手を誕生させた。同時に進学実績も呼応するように結果が出始めている。「目標は日本一」と公言し、2009年の長崎県立清峰高校以来となる、公立校としての選抜での全国制覇を掲げている。
──明石商業の監督になった経緯について教えてください。
狭間監督「2005年に、全国初の野球指導経験者による採用試験を馬淵監督に内緒で受けました。応募条件としては、『44歳以上、中学野球以上で5年以上の監督経験』というものがありました。何百人という受験者がいて、その中には社会人の監督や九州や四国の私学の監督もいらっしゃいました。その中から一次試験を通過したのが9人。その後、10分のプレゼンテーションや30分の面接、一般教養のテストを経て、私が採用されることになりました。合格後、すぐに馬淵監督に伝えましたが、受ける前に話していたら、クビになっていた可能性もあったので心苦しかったのですが、黙って受験しました。
明徳義塾中学で実績を残し始めると、九州や東北の高校や大学から監督のオファーがありました。実は明石商業が決まる直前まで、東北のある学校に行くことが決まっていたんです。ただ妻が明石市出身で、東北より明石に帰りたいと言うので、地元の明石に戻ることになりました。もし明石商業の監督でなければ、東北に行っていたので、人生は分からないものです。明徳義塾に行ったことで人生が大きく変わり、明石商業に来たことで、再び人生が大きく変わりました」
──狭間監督が行なった改革は勉強でも実を結びましたか?
狭間監督「全国的に見ても、ここまで変化した公立校は他に無いと思います。昔は明石商業に行くぐらいなら職業訓練所へ行った方が良いと言われるほどの高校でした。いまは、オール3であっても不合格にする高校へと変貌しました。明石商業野球部からは国立大学へ3年連続で、また関関同立の全てにも合格者を出しています」