百合子は独身で泉を産み、ピアノ教師をして育ててきた68歳。泉はレコード会社の同僚〈香織〉と結婚後も、元日生まれの母の誕生日は実家で祝い、秋には子供も生まれる中での母の異変だった。
それでも泉は連れ帰った母と2人、例年通りに昔のことを話しながら年を越す。11歳の時、彼は〈わたしの誕生日は誰も忘れないけど、いつも忘れられるのよ〉という母のために、生まれて初めてプレゼントを買った。商店街を散々彷徨った末に選んだ一輪の水仙だったが、母はそれを見るなり台所に消え、赤い目をして言った。〈いちばん好きな色〉〈今日が誕生日で、よかった〉
以来、泉は母が一輪の花を欠かさず、花を活けてピアノを弾いている限りは、大丈夫だと思っていた。
「母親の老いを特に息子は認めるのが怖いんだろうな。ですが認知症を、わからないから怖い、怖いから避けるじゃ埒が明かない。今回意識したのは有吉佐和子作『恍惚の人』(1972年)のアップデートなんです。
あの作品は痴呆症の舅と嫁の壮絶な日々を描き、200万部近く売れた傑作ではあるけれど、半世紀近く経った今では研究も進み、きちんと知れば対策の立て様もある。例えば買い物に行くという現在的な目的と幼少期の記憶が混在したりする、時間の並列化によって徘徊が起きるメカニズムなど、最新の情報を盛り込みながら、忘れていく百合子と当惑する泉の視点の両方を、交互に構成しました」
◆SF的なことが現実に起きる驚き
本書を介護小説にするつもりはなかったと言う氏は、親子があえて触れずに来た「一年の空白」というミステリーを軸に、共働き夫婦の出産や仕事を巡る現代的風景をスケッチしてゆく。