冬になると、昭子さんの病状はさらに悪化した。
「がんの専門医という立場から見ても、妻が死に近づいていっているのは明らかでした。12月に入ると、背中と下半身の浮腫がひどくなり、起き上がるのも難しい状態になりました。そんな中で、何度も繰り返したのが『年末年始は家で過ごしたい』ということ。これは『わが家で最期を迎えたい』という妻の切なる願いだったのです」
◆地獄の日々が開始した
妻の“最期の願い”を叶えるべく、垣添さんは在宅用の医療機器や医薬品を準備し、12月28日に昭子さんは自宅に戻った。
「住み慣れた家で過ごすのは、病院の白い壁に囲まれるのと全く違うのだとよくわかりました。起き上がれないはずの妻が、こたつに入ってくつろいでいる。しかも、薬の副作用でひどい口内炎を患い、ご飯を食べられない状態のはずなのに、私が作ったあら鍋を『おいしい』と2杯もおかわりしました。『家ってのは、やっぱりこうでなくっちゃ』とニコニコする姿を見て、連れて帰ってきてよかったとあらためて思いました」
住み慣れた家で過ごした昭子さんは、垣添さんに見守られながら4日目の大みそかに息を引き取った。78才だった。
「不思議なことに、ずっと意識がなかった妻が心肺停止の直前に体を起こして、私の目を見て、手をぎゅっと握ってくれました。『ありがとう』と伝えたかったのだとわかりました。最期に心を通い合わせることができたのも、家でふたりで過ごせたからだったのではないかと思います」
しかし、ここからが地獄の苦しみの始まりだった。
「年が明け、これまで通りがんセンターに出勤し、仕事の日々が始まりました。勤務中は仕事に没頭しているから忘れられるのですが、ひとり家に帰ると、妻がいないことを痛感します。子供もおらず、いつもふたりで、“ツーカー”の仲でしたから、話し相手がいないのが何よりもつらかった」
玄関に並んだ靴やクローゼットにあるスカーフ。妻の遺品が目に入るたびに涙があふれ、酒をあおる日々。
「ウイスキーや焼酎を、毎晩ロックで4~5杯は飲んでいました。そうしないと、眠ることができなかったのです。当然、食欲もなく、体力も筋力も落ちていった。“自死できないから生きている”という状態でした」
そんな生活は3か月続いた。
「悲しみが癒えることはありませんでしたが、その一方で『この生活を妻が見たらなんと思うだろうか』 『いくらなんでもこれはひどいな』と考えられるようになってきた。時を同じくして、お寺の住職さんから100日法要をすすめられたことも、ひとつの区切りになったと思います。少しずつ、運動をしたりご飯を作ったりするようになり、徐々に回復していきました」
※女性セブン2019年7月4日号