「八百(やお)や万(よろず)の神遊び」「マレビトの眼」「信心は宗教にあらず」「むらの祭りを伝える意義」……おおかたの章に、地元の人が語り手として登場して、腹蔵のないところを語ってくれる。備中弁をまじえた語り口がなんともうれしい。祖父、父と神主がいたころなので、若手はここでは「若」である。若は何だって聞いてくれる。若は話しよい。そんなふうに言われていたのではなかろうか。
「ま、ま、その盃をあけてくだせえ」
ひとり祈祷をしている若は、そんなお相手もしてくれる。
貴重な記録である。一般に寺の僧侶のことはかなり知られているが、神主のことはほとんど知らない。妙な帽子や奇妙な靴や、目を洗うような白さの衣装や、独特の音色をもつ楽器を、ほんのちょっぴり知るばかりである。それがここでは実体験を通して、くわしく語られている。おりおり民俗学者の観察がキラリとまざりこむ。
※週刊ポスト2019年9月6日号