スタンダップコメディアンを目指すアーサーは、老朽化したアパートで母と二人暮らしを続けていた(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM &(C)DC Comics
エレベーターのなかで偶然、若い黒人のシングルマザーと短い会話をしたアーサーは、彼女の職場を知るためにあとをつける。このストーカー行為によって、アーサーは妄想のなかで彼女と交際するようになる。
子ども時代の虐待を思い出し母親を殺したアーサーは、錯乱して彼女の部屋に押し入ってしまう。映画ではそこでなにが起きたのかいっさい描かれていないが、このあと、アーサーはジョーカーへと変貌していく。
アメリカの映画評では、アーサーは黒人の母親と(おそらく)子どもを殺したのだろうとしていた。これが正しいとすれば、黒人女性の部屋での出来事が映画からかんぜんにカットされた理由がわかる。そんなシーンを描くことはもちろん、示唆するだけでも現在のハリウッドのコードではとうてい許されないだろう。
アーサーを性愛から排除された「インセル」と見なすことで、「『ジョーカー』はミソジニー(女性嫌悪)とレイシズム(黒人差別)の暴力を正当化している」と批判されている。監督はこうした反応を予期したうえで脚本を書いたと思うが、それはアーサーが性愛から全面的に排除されていなければならないからだろう。
エレベーターで出会ったのが(マジョリティの)白人女性であれば、観客は「(マイノリティの)黒人女性ならつき合ってもらえるかも」と考える余地がある。アーサーの絶対的な孤独を描くためには、リスクを負ってでも、妄想上の恋人は「黒人のシングルマザー」でなければならなかったのだ。
アメリカにおける「上級国民」とは誰なのか
「下級国民」の対極には「上級国民」がいるが、これは貧困層と富裕層のことではない。『ジョーカー』の演出は、この単純な構図に矮小化されることを慎重に避けているようだ。
ゴッサムシティの「上級国民」は、のちにバットマンとなるブルース・ウェインの父で大富豪のトーマス・ウェインに象徴されている。だがアーサーは、母親がかつてウェインの屋敷で働いており、折に触れてその話をすることから、漠然とした憧れをもってテレビに映る姿を観るだけだ。
アーサーがトーマス・ウェインに執着するようになるのは、母親の手紙を盗み見たことで、自分がトーマスの隠し子ではないかと思いはじめたからだ。これが母親の妄想なのか、事実なのかはあいまいにされたままだが、アーサーとウェイン家の因縁は個人的なものであり、格差や不平等など社会の歪みに対する憤りから生まれたわけではない。
アーサーがウォール街で働く男たちを銃殺する場面でも、きっかけは笑いの発作を誤解されて暴行されたことで、彼らが富裕層であることは新聞の見出しを見るまで知らなかった。
トランプ支持の「白人至上主義者」たちは、資本主義社会における富の偏在を否定してはいない。このことは、トランプが大富豪であることで明らかだろう。同様にアーサーは、自分が貧困層でトーマス・ウェインが大富豪であることを理不尽だと思っているわけではなく、ある種の運命のように受け入れている。トーマス・ウェインはアーサーではなくピエロの面を被った第三者によって唐突に殺されるが、これも「貧者による富者への復讐」と解釈されることを嫌ったからではないだろうか。