最近のハリウッドは「人種多様性」が重視されるので『ジョーカー』に黒人が出てくるのは不思議ではないが、その登場には一貫した規則(ルール)がある。黒人はアメリカ社会では少数派(マイノリティ)だが、アーサーが出会う黒人は、全員がほんのすこしだけ恵まれているのだ。
バスで出会った黒人の母親は、貧しい暮らしをしているかもしれないが家族がいる。セラピストと精神科医は専門職の仕事で、精神科病院で働く黒人男性は(少ないとしても)安定した給料を受け取っている。同じ階の黒人女性も、貧しいながらも働いて子どもを育てている。すなわち誰もが社会のなかで、仕事を通して、あるいは家族と共にいることで、自分の居場所を持っている。
それに対してアーサーは仕事を失い、認知症の母親は一方的に甘えるだけで相談相手になってはくれず、自分がこの世界に「存在」しているかどうかすらあやふやになっている。これが意図的な演出かどうかはわからないが、マジョリティである白人男性のアーサーは、マイノリティである黒人のさらに「下」にいるのだ。
アメリカにおける『ジョーカー』への批判に、「暗黙に白人社会を肯定しているのではないか」というものがある。アーサーが黒人ならたんなるホームレスで、悪役(ジョーカー)になることさえできないというのだ。これはさすがにきびしすぎると思うが、たしかに映画のなかでアーサーより「下」の黒人は出てこない。
トランプの岩盤支持層である「白人至上主義者」は、白人の人種的優越を主張しているわけではない。それとは逆に、自分たちこそがアメリカ社会でもっとも差別され、虐げられているのだと信じている。彼らは「白人マイノリティ」を自称し、「白人差別」の人種主義(レイシズム)とたたかっているのだ。
中流から脱落した白人たちは、黒人がマイノリティであることを盾にとり、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)で「不正に」恵まれていると怒っている。マイノリティ(黒人)がマジョリティ(白人)を抑圧し、「差別」しているというのだ。
このように考えれば、映画『ジョーカー』がアメリカのリベラルから警戒される理由がわかるだろう。白人のアーサーを「最底辺」にしたことで、その設定は白人至上主義者の世界観(黒人は自分たちより優遇されている)ととてもよく似たものになったのだ。
「プアホワイト」=アメリカの下級国民という構図(橘玲『上級国民/下級国民』掲載の図を一部改変)
性愛から排除された「Involuntary celibate(非自発的禁欲)」
「下級国民」であるアーサーは、仕事を失ったことで社会から排除されたと同時に、性愛からも排除されている。アーサーが話をする女性は、黒人のセラピストと母親しかいない。
性愛から排除された男性は日本では「非モテ」だが、アメリカでは「インセル(Incel)」と呼ばれる。これは「Involuntary celibate(非自発的禁欲)」のことで、宗教的な禁欲ではなく、「自分ではどうしようもない理由で(非自発的に)禁欲状態になっている」ことの自虐的な俗語としてネット世界に急速に広まった。
2014年以降、北米では「インセル」を名乗る若い白人の無差別銃撃事件が立て続けに起きた。その動機は自分たちを性愛から排除した社会への復讐で、まさに「非モテのテロリズム」だ。