そして、「あんな球を投げられるピッチャーは二度と出てこんよ」と豪快に笑って話にオチをつけるのだった。
他にも金田氏は「あの試合に完投していたら歴史が変わっていた」と、こんなエピソードを披露してくれたことがある。
「ワシも晩年は力が衰えていた。そのため(1969年に)399勝になった時点で、(監督の)川上(哲治)さんから“リードしている試合は4回で先発は降板し、そのあとは金田がリリーフのマウンドに行く”と通達されていた。これで城之内(邦雄)をリリーフして400勝を達成した。だが、そのあとで401勝になりそうになったことがあった。ワシが勝ち投手の権利がある状態でマウンドを降り、宮田(征典)がリリーフに出て行って負けた。それで400勝で終わった。やはり他人は信じてはいけないのよ」
金田氏は「先発完投」の極意をこんなふうに表現していた。
「ワシはランナーが出るまで真剣に投げたことがない。疲れるからな。球種もカーブとストレートしか投げなかった。だからサインもワシがキャッチャーに出していた。ワシが口を開けばカーブ、閉じたらストレートだったかな。省エネ野球だよ。
風も利用した。キャッチャー方向から風が吹くアゲンストの中で投げると、変化球の曲がりが大きくてバッターは全く打てなかった。アゲンストでないと球の回転がいかされない。ワシは球の回転で投げるタイプだ。だからアゲンストの日は打たれる気がしなかった。ドーム野球ではわからない感覚だと思う」
金田氏が、長嶋茂雄氏、王貞治氏とともに1978年に創設した名球会だが、当初の入会条件は「投手なら200勝、打者なら2000本安打」だった。これが投手分業制の登場を受け、2003年に条件が変わった。「250セーブ」が加わったのだ。