翌年、日本にセーブの規則が出来上がった。南海優勝の前年にルールがあれば、佐藤は10セーブを記録していたことになる。2位は5セーブの木樽正明(ロッテ)、田中章(太平洋)、セ・リーグの1位は6セーブの安田猛(ヤクルト)だから、佐藤の記録は突出していたわけだ。
佐藤は1974年、130試合制でリーグ最多の68試合に登板。13セーブを挙げて初代セーブ王になった。この頃は抑え投手が2~3イニング投げることは頻繁にあり、佐藤は主にリリーフを務めた7年間で6度も規定投球回数(=試合数)に達している。ただし、そのうち3度は130~136回の間だった。
1974年は最終戦前日のダブルヘッダーの第1試合に4回、第2試合に2回を投げて、なんとか到達。それまで1位の神部年男(近鉄)を上回り、1.91で2度目の最優秀防御率を獲得した。タイトルを取らせようという野村監督の配慮が垣間見える。野村氏は前掲書で、こう書いている。
〈宮田と江夏の活躍が鮮烈だったので、その狭間にある佐藤のストッパーとしての印象が薄れてしまった。(中略)ここであらためて「佐藤が最初の本格的ストッパーである」と記し、彼の名誉を回復する次第である〉