◆日本文化、日本人の美徳に潜むリスク
人は自分の価値観や行動規準に合わないものを排除することによって心の安定を保とうとする。また共通の敵を見つけ、一緒に攻撃することで仲間どうしの結束を強めようとする。そこに「正義」という後ろ盾があり、「正しいことをしている」という思い込みがあれば良心の呵責はなく、他人の攻撃にブレーキがかからない。「正義中毒」と呼ばれるように、正義感の暴走は一種の病理現象である。
考えてみれば、それは日本文化、日本人の美徳とされているものと隣り合わせだということがわかる。文化や美徳のなかに、「正義中毒」に陥りやすい危険性が潜んでいるのである。
たとえば災害時でも秩序を守って行動し、礼儀正しく振る舞う日本人はしばしば海外からも賞賛されるが、それは一人ひとりの道徳心や矜恃によるものばかりでなく、多くの場合、背後で厳しい同調圧力が働いていることを見逃してはいけない。
「私」より「公」を優先する道徳規範もそうである。一般に世間では「私憤」はいけないが「公憤」はよいとされる。しかし冒頭にあげたような人権侵害や営業妨害ともいえるような行為は、たいていが単純な「公憤」から出たものだ。少なくとも「公」の衣をまとっている。しかも、そこで掲げられる「公」や「正義」は反論を寄せつけないため、しばしば偏狭で、独善的なものになりやすい。
そもそも「公憤」に欠落しているのは当事者性である。実際に自粛違反を糾弾し「不謹慎狩り」をする人たちは、たいていが当事者とは無関係な第三者である。そのため擁護しているつもりの当事者にとって、むしろありがた迷惑ということがよくある。
たとえば震災後に興味半分で被災地を訪ずれる観光客がネット上で批判にさらされたが、経済的に疲弊した地元からは「興味半分であっても来てほしい」という声があがった。また「不謹慎」扱いされることを恐れて人々がタブー視するようになり、かえって差別や偏見が潜行していったケースもある。
考えようによれば、他人に無用な干渉をしない「私憤」のほうがむしろ質(たち)がよく、それを表に出しやすい社会のほうが健全だともいえる。