その一方で、エピソードのひとつひとつは、安心して観ていられるものばかりではない。策略によってマサとの待ち合わせ場所へ入れなかったアユが突然、庭で歌い出したり、浜辺に流木で17文字もの歌詞を書いたりする。どちらもアユの才能の素晴らしさにマサが感激するのだが、アユの突飛な行動に驚かされるのが先に立って、感激するマサに共感するのはなかなか難しい。それはきっと、アユであれば何をしてもすべてを納得させる力があった時代をそのまま描写しているためではないかと思う。
1990年代後半の浜崎あゆみは何をしても最先端でかわいく、格好いい存在だった。あれから随分と時は経ったわけで。21世紀になり20年、元号も平成から令和に変わったし、中学のマドンナだった金井さんも結婚したと聞く。彼女が浜崎あゆみの世界観にどっぷり浸かっていた20年前なら、2人が綴る『浜崎あゆみ物語』にリアリティを感じ、有無も言わさず納得させられた(かもしれない)。しかし、2020年の視聴者である僕は、金井さんと違って当時の熱狂を外側から観ていたため渦の中の勢いが思い出にすら残っていないから、アユとマサの熱さと勢いに驚かされ、振り回される。この振り回される感覚が、だんだん癖になってくるからこのドラマは侮れない。
作り手は本気でアユとマサの物語のリアルを描いているつもりなのだと思う。しかし、コチラが瞬時にそれをリアルと受け止めきれない。奇妙な非現実感を生み出すのだ。成功への渇望はかなり強く、目指すは「売れる」「スターになる」こと。2人の目標は世の中の人が注目する輝く存在となることなのに、劇中向き合う困難は、まるで梶原一騎原作のスポ根マンガのように具体的なハードルだ。そのスクワット1000回のような障害を乗り越えることは、果たして2人が目指すゴールへと繋がっているのか?と思わなくはないが、そんな疑問をじっくり考える暇を与えぬ過剰なリアクションでアユとマサは困難をクリアし続ける。
一話を見終わって少し経つと「過剰すぎやしないか……」と思わせるドラマである。「今やっている苦労はどこで報われるのだろう……」と首をかしげたくなるような努力を続けるバディを、自分は応援すべきなのか迷う。画面に現れるアユとマサ以外の人物が持つ情報量が多いことも相まって、視聴者は2人を冷笑する敵役たちのほうへ目を向けてしまう。そして、我ながら意地悪いなあと思うが、目標に向かって熱く燃えあがるアユとマサを嘲笑ってしまう。街中で濃厚にイチャつくバカップルをついつい観察してしまう感じに似ているのか……、内心「うわぁ~」となりながらも僕を夢中にさせる。脇役のことばかり話題にしても、結局はアユとマサが気になるのだ。だって、何があってもお互いを必要とするカップルなんて、羨ましいに決まってる。