「世界のシマノ」を築いた4代目社長の功績
シマノの歴史は大正時代にさかのぼる。
〈1921年2月、島野庄三郎(当時26歳)は、堺市東湊(ひがしみなと)のセロロイド工場跡地12坪を月5円で借り、懇意にしていた佐野鉄工所から借りた六尺旋盤1台を元手に島野鐵工所を創業した〉(同社HPより)
自転車のペダルを止めても車輪が回り続けるギア、フリーホイールの生産に乗り出し、1940年1月、株式会社島野鐵工所を設立。初代社長に庄三郎が就任した(1951年に島野工業に社名変更)。
1957年には内装3段変速機の生産に着手。シマノの中核技術ともいえる冷間鍛造技術の研究を開始する。当時、日本で冷間鍛造技術をモノにしたのは、トヨタ自動車やシマノなど数社に限られる。
1958年9月に庄三郎が逝去した後は、庄三郎の息子たちが経営を担う。尚三、敬三、喜三の「島野三兄弟」である。長男の尚三が2代目社長、次男の技術屋である敬三が開発、三男の喜三が営業を担当した。3代目社長は敬三、4代目は喜三と、兄弟が経営のバトンを引き継いだ。
シマノが英語を公用語とするほどの世界企業となったのは、自転車の国内需要が激減する中、海外に活路を見出そうとした米国進出がきっかけだった。1965年、ニューヨークに現地法人を設立し、三男の喜三が30歳の若さで米国法人の初代社長に就任した。以来、米国在住歴は27年に及ぶ。
だが、知名度の低さから苦難の日々が続く。そこで、発想を根本的に転換。「部品を売るために自ら需要を創り出そう」と決意し、全米の6000に及ぶ小売店を訪問した。ここで得た生のニーズを汲み取り、遊び心満載の子ども用自転車の変速レバーや、一般人向けの多段コンポーネント(部品を組み合わせたもの)を販売すると、これが大ヒット。シマノの名は全米に広がった。
1973年のオイルショックで1年分の在庫を抱える事態になったが、1979年、喜三は後のマウンテンバイク(MTB)である改造自転車に米国の山や野原で出会う。
喜三はMTBブームが来ると直感した。技術屋たちは泥や水に負けないMTB専用の部品作りを開始する。試行錯誤の末に完成したMTB専用部品コンポーネント「デオーレXT」は、喜三の読み通りMTBの一大ブームに波に乗り、世界中で爆発的なヒットを記録する。
1970年には釣具事業部が発足。米国ではシェア20%のトップブランドとなり、自転車部品に次ぐ営業の2本柱に育った。シマノに商号を変更したのは1991年のことだ。
そして1995年、喜三は4代目社長に就任。1998年、「本当の意味でのチームシマノにしたい」との思いから英語を社内の公用語にした。1970年に23億円だった海外売上高は2019年12月期には、じつに14倍の3224億円になった。
「世界のシマノ」ブランドを築いた喜三は2020年7月3日亡くなった(享年85)。