高橋瑞は、嘉永5年(1852年)、現在の愛知県西尾市生まれ。祖父は元西尾藩の兵学指南役、父も和漢の書に通じ、六男三女の末娘に〈瑞は利口だから学問をやるといい〉と目をかけた。だが、父の死後、長兄の家で家事や子守に追われる瑞は塾に通うことも許されず、没落した士族の娘には20歳を過ぎても縁談はなかった。
やがて24歳で母を看取り、心おきなく家を出た瑞は、旅芸人一座の賄婦や東京・小石川の妾宅の女中などを転々とする。特に弟の学費を稼ぐために某政治家に囲われた前橋出身の絹子とは、故郷で教職に就く弟の嫁に望まれるほど信頼を築く。
「瑞の結婚相手に関しては、前橋の教師という説と車夫という説の2つあって、真相は今も謎なんです。
ただし瑞が明治13年(1880年)頃に前橋の高名な産婆、津久井磯子の下で修業していたことは記録が残っている。ではなぜ瑞が前橋にいたのかを説明しようとすると、夫が教師で絹子の弟だったという本書の筋立てが最もしっくりきました。しかし結局はその結婚もうまくいかず、当時〈中条さん〉とも呼ばれた堕胎薬を常用していた絹子の死をきっかけに瑞は家を出ます。
そして磯子の援助を受けて浅草の産婆学校・紅杏塾に学び、産婆ではなく医師をめざすこの物語の端々に、迷信や偏見や誤った情報の犠牲になった名もなき女性たちの無念を、私は少しずつでも反映させたいと思いました。
現に明治大正期の雑誌にはこの手のほとんど毒ともいえる堕胎薬の広告がよく載っていたほど、当時は避妊も堕胎も女性任せですし、出産も命がけでした。しかも絹子の言う〈産むも地獄、産まぬも地獄〉という言葉が今も別の形で生きているなど、これだけ医学が進んだのに何してるのよって、瑞たちもさぞ呆れていると思います」