その視線が一緒にビールを飲んでいた元刑事の顔の上で止まった。男は元刑事の顔を凝視すると深く息を吸い込み、店内に足を踏み入れた。そのまま隅にあるテーブルに座る。警察官たちの視線が男の動きを追う。誰も声を発しない。誰も音を立てない。女将が近寄って水を置くと、男は低い声で丼物を頼んだ。コップを持ち上げ水を一口ごくりと飲む。コップを置くと、ポケットからスマホを取り出し、何事もなかったように画面を操作し始めた
動きを止めていた警察官たちは、これをきっかけに再び飲み始めた。だがこれまでのリラックスムードは消え、店内はピリピリしていた。誰もが視線の片隅で男を捉えて離さない。
「あれは誰だ?」
元刑事に小声で尋ねると、彼はこう答えた。
「関東連合の幹部だ。俺がかけたヤツだ」
“かけたヤツ”とは“手錠をかけたヤツ”の意味である。男は元刑事が現役の時に逮捕した半グレの関東連合の幹部だったのだ。腹をすかせて歩いていた時、安そうな飯屋ののれんが目に入り、そこが警察のたまり場とは知らずに入ったのだろう。男は丼を食い終わると、すっと店から出て行った。
「飯を食っていっただけ大したもんだ」
元刑事は、テーブルの上に残された空っぽの丼を顎で指してそう言った。
河岸を変えようと店を出て、元刑事行きつけのカラオケスナックに向かった。チリンチリンと呼び鈴が鳴る扉を開けると、なぜか制服姿の警察官が2人、目の前にすっくと立っていた。店の奥には見覚えのある顔がのぞく。
ママが耳打ちをして、苦笑いしながら首をすくめた。
「飲み過ぎて大騒ぎしちゃってね。あまりにうるさくて近所から苦情が出たみたい」
大音量でカラオケしていたのは所轄の署長だった。苦情処理に行ったら、自分の署の署長が騒いでいたなんて、交番勤務の警察官にとっては悲劇でしかない。
飲み会自粛で警察官が寄りつかなくなったこうした店には、今、どんな客が顔を出しているのだろうか。