特に前半、自分や日本人にとっての普通を無邪気に押し付ける聖司と、従順な桃嘉の結婚生活は傍目にも息苦しいほど。だが、友達と会ったから夕食は要らないと聖司から電話があり、朝まで帰らなかった日を境に事態は転がり出す。
そしてある時、聖司に急な出張を告げられ〈たまには家のことや俺のことを忘れて、お母さんのところで羽をのばしなよ〉と言われた桃嘉は、〈わたしの羽、そんなにちぢこまってみえるの?〉と実家で母の料理を味わいながら、夫が元カノといることを確信するのだ。
「なのに彼女は何も言えないんですよね。夫に浮気され、台湾の母の味を否定されても怒ることすらできない。結局、桃嘉は、日本語がカタコトで『普通じゃない』母親を守るのは自分だ、と思うあまりイイ子になり過ぎたんです。就活に失敗したことで打ちのめされて結婚に逃げ、聖司やその家族にどこか遠慮し続けることになりました。
ただし聖司らを悪く書いたつもりはないんです。聖司の父はむしろ、桃嘉の母親は〈外国人〉だからと気を遣うのだし、聖司の妹が〈台湾も、けっこうおしゃれなんだよね。しかも、すごく親日なんでしょ〉と、お勧めの観光地を聞きたがるのも、別に悪気はなく、どちらかといえば義姉と仲良くしようと思って言っている。私も、色々な場面で他の人に対してつい自分の中の『当たり前』を押しつけてしまうことはある。
つまり聖司的な傲慢さは誰にでもあり、無意識なだけに怖い。でも幸い私は家庭環境のおかげで自分を疑うチャンスや、数々のイイ子を生んできた日本的な同調圧力について考える機会に恵まれたので、『普通の呪縛から自らを解き放てばもっと楽になれるよ』と、今は提起できる立場にいると思っているんです。『もっと考えた方が、もっと面白いよ』って」
言葉は豊饒なぶん権力と相性がいい
表題の「さえずり」とは、鷹揚で寛大で、雪穂の母親が作る魯肉飯のファンでもある茂吉の、〈義姉さんたちといるときのきみは、喋っているというよりはさえずっているような感じがする〉という台詞に由来。台湾の実家では今でも旧正月になると、雪穂ら4姉妹が集まり、その賑やかなこと。
そして桃嘉にとっての伯母たちが懐かしむ祖父が日本贔屓だったことや、茂吉と雪穂の結婚の背景などを、温氏は政治や歴史といった大文字で語るのではなく、より細やかで機微に富んだ人間ドラマに描く。
「日本統治時代の是非でも植民地構造の有無でもなく、そこに生きた人々の物語を私は書きたいし、それは言葉についても同じです。母国語という言葉自体、複数の言葉を混ぜて話す母の声を聞いて育った私には違和感があります。実は、それは国以前、何語以前の母の言葉でしかないんです。考えてみたら日常レベルで聞く言葉って実はよく聞き取れない音も結構多い、さえずりみたいなものですよね。
それを私自身、『あなたは何語を話す何人か?』と、一つに決めるよう求められ、そのつど律儀に答えてもきたけれど、その質問自体が罠だったと今は思います。いろんな言葉を携えて生きる方が余程贅沢でふくよかですし、切り捨てたくはないのです」