公開記念イベントに揃って登場(時事通信フォト)
恋するふたりの“塹壕戦”
自身が描いたイラストを絹に「好きです」と言ってもらい自信をつけたのか、麦はフリーランスのイラストレーターとして生計を立てていこうとする。就活でいじめ抜かれた絹は、大企業の正社員としての人生に背を向け、フリーターとして生きる道を選ぶ。ふたりは社会のシステムから一歩身を引いたところで、自分たちの幸せな時間と空間を確保しようとする。
ここで注目しなければならないのは、幸せな暮らしを彼らが社会から身を引くことによって成り立たせようとしている点だ。なぜ、このような選択がなされるのだろう。社会は理不尽で、世界は不条理だと彼らが思っているからである。だから、そんなものに巻き込まれない場所と時間を確保して、君と僕とで生きて行こう、信じられるのは君と僕との関係だけだ。これが麦と絹が代表する、(全員とは言わないが)いまの若者の認識である。
この作戦は当初は実にうまくいく。格安で借りられた多摩川沿いに建つマンションのふたりの部屋に引きこもり、多摩川の土手を散歩するふたりは実に幸せそうに見える。社会の理不尽もここまでは及ばない。ふたりの“塹壕戦”は成功したかのように見えた。
しかし、この作戦は綻び始める。まず麦が、徹底的にギャランティーを叩きまくられ、イラストレーターとして生きて行くことをギブアップする。就職した麦は、根が真面目な故に懸命に職務をこなそうとするが、それが絹との共同生活でのすれ違いを生じさせ、また彼の繊細な感性もじょじょにすり減っていく。
実は映画を観ていた僕はここに若干の違和感を感じた。(実際にはプロが描いているのだろうが)あれほど達者なイラストを描けるのならば、営業して自分を売り込むなり、画風をもう少し変化させるなりして、マネタイズに努めてもよかったのではないか、と思ったのである。やさしいが弱い。なぜ、もっと積極的に動かないのか、なぜもっと戦略的に粘って自分の才能を開花させようとしないのか。それは、彼らが、社会が理不尽であるということを嫌というほど知っている世代だからである。
一方の絹はいくぶん慎重な戦略をとる。生活のために好きでもなんでもない仕事もし始めるが、仕事が自分の生活圏を汚すことを恐れているかのように、一定の距離を取ろうと努める。やがて麦が社会に陥落させられたと見た彼女は、自分の興味のあるほうへと転換を図ろうとする。このような彼女の動きを見た僕は、彼女のほうが傷つくことのキャリアが長いようにも思えた。