美しい思い出を道連れにして……
『花束みたいな恋をした』も『追憶』も『ラ・ラ・ランド』も、出会い、人生のある時期をともに過ごして、別れる。しかし、その別れ方はかなりちがう。『追憶』も『ラ・ラ・ランド』もたがいがふさわしい場所に向かっていくための別れだと解釈することができる。
『ラ・ラ・ランド』では、女優としての起死回生の大チャンスを握ったミアが、この役をもらえたらパリに行かなければならないと告げる。セブは「もし君が受かったら、もう僕にできることはない」と言う。「そして自分はここに残ってやるべきことをやる」と。これは実質的には別れの挨拶だ。ミアは衝撃を受ける。しかし、ミアもセブも自分たちにはそれぞれふさわしい場所があることを知っている。それは『花束みたいな恋をした』の麦と絹のようには重なってはいない。だからミアとセブは別れる、別れなければならない。
しかし、『花束みたいな恋をした』では、かつてはたがいに共有できた好きなものがもはや共有できなくなったという諦念が、ふたりに別れを誘発する。唖然とさせられるのは、好きなものが同じであることによって結びついた関係性の脆さである。
『追憶』『ラ・ラ・ランド』『花束みたいな恋をした』の3作品はともにラストシーンでつかの間の再会が描かれる。『追憶』と『ラ・ラ・ランド』の男女ふたりは似つかわしい場所にいる。『ラ・ラ・ランド』の終盤、女優として成功したミアはいまのパートナーとふらりと入ったジャズクラブで、セブを見つける。彼もまた自分の夢を叶え、このクラブのオーナーになっている、とミアは知る。別れ際にふたりは視線と淡い微笑みを交わす。ともに人生を歩むことはなかったけれども、それは「やったな」というエールの交換だ。
『花束みたいな恋をした』で、麦と絹がファミレスで偶然に再会した時、ふたりは新しい恋人をともに連れている。そしてやはりひそかにエールを送る。似ていると言えば似ている。しかし、ふたりのいまのポジションは明確には示されない。彼らは、前よりも幸せなのだろうか。ふさわしい場所にいるのだろうか。やはり、自分と好きなものが同じ異性とつき合っているのだろうか。ここはよくわからない。
豊かな情緒性を伴う宙ぶらりんの状態で映画は終わる。ただ、彼らはそんなには変わっていないはずだ、と僕は思う。そして、社会もまた理不尽なまま、世界は不条理に満ちたままだ。そんな社会を、世界を、若者はこれからまだ先の長い人生を生きていかざるを得ない。