『追憶』『ラ・ラ・ランド』との共通点と相違点
物語はふたりの学生が出会うところから始まる。場所は東京。絹(有村架純)と麦(菅田将暉)は周囲に溶け込めず、この社会をうまく生きられないという感覚を両者ともに持っている。但し、その疎外感はシリアスに発展するほど深いものではなく、むしろそういう自分をひそかに誇らしくさえ思っている。このふたりが京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会う。そして、恋に落ち、愛し合い、ふたりの関係は同棲という形に発展する。
さて、ふたりはなぜ恋に落ちたのか? それは好きなものが同じであったからだ、そう映画は語っている。たがいが同じ“神”(押井守!)の信仰者であった、とふたりは知る。自分が大切に思う表現を相手もまた大切にしている、と知る。つまり価値観の一致がふたりを結びつけたわけである。つまりは同じクラスターの住人、同類、同種、同族であったというわけだ。
これは無理のない、ごく自然な流れのように思える。しかし、このような展開は、実はフィクションとしては、とくに欧米においては、例外的である。典型例をふたつ示そう。まずは『追憶』(1973年 シドニー・ポラック監督)を思い出して欲しい。
若い男女ふたりが学生時代に出会うのは『花束みたいな恋をした』と同じである。ところが、このふたりは水と油ほどに価値観がちがえば、住んでいる世界もちがう。ハベル(ロバート・レッドフォード)は政治的には保守で、作家を目指しており、美男子でスポーツもできる人気者だ。かたやゴリゴリの左翼であるケイティ(バーブラ・ストライサンド)は皆から変わり者と見られている。このふたりが愛し合うことになる。この恋愛にはかなり無理があるのだが、ふたりはその不可能性に自らを投げ入れる。
このような異質な者どうしが出会い、親密な関係は不可能であるが故に接近する、というストーリーはずっとくり返されてきた。2017年に日本公開された『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)もそうだ。ハリウッドで女優を目指しているミア(エマ・ストーン)が一目見てなぜか気になったセブ(ライアン・ゴズリング)はジャズに夢中で、ジャズクラブを持ちたいと言う。
だいたい、ジャズに夢中というのがイタい。これは筆者の偏見かも知れないが、いまのアメリカで男が「俺はジャズが好きだ」と女に告白するのは、ほとんど「民謡が好き」くらいのニュアンスではないか。ミアははっきりと「私はジャズは嫌いよ」と言い放つ。その言葉がセブの心に火をつけ、俺が好きな“神”を君も好きになれ、とばかりに“布教”する。
このような摩擦は『花束みたいな恋をした』にはない。そもそも恋愛映画というのは、〈出会いは最悪だったはずなのに、いつのまにか(実は最初からなのだが)恋に落ちていた〉というプロセスを経るのが一般だが、『花束みたいな恋をした』の前半は、実にハッピーで心温まる光景がどんどん繰り広げられる。