ドドンゴさんはそれで友人を何人もなくしたそうだ。たまに優しい人がいてドドンゴさんのウルトラ話に「あー懐かしいね、○○だっけ」という調子合わせの会話をしてくれても、そこにちょっとでも間違いがあると烈火のごとく怒り出してしまう。これはさすがに気をつけないと女性とつき合うどころか友人も居着かない。ドドンゴさん、そんな性格が災いしてか、休日はマニア仲間もおらず一人黙々とウルトラシリーズを視聴し、「僕の怪獣大辞典」的なノートをびっしり何十冊も編み続けるのが日課だという。
「自分、なにかの病気なんだと思います。でも知りたくはないですね。むしろ子どものころにそういうのがなくてよかったと思います」
ドドンゴさんは仮に病名がつくとして、その病名を知らず中高年になってよかったと語る。確かに、ドドンゴさんが21世紀に生まれ育ったなら、学校や周囲から精神関係や発達についての受診を勧められたかもしれない。昔は明らかな場合を除けば「変わった子」で済まされた。もちろん、済まされてしまったがためにいわゆる「大人の発達障害」として苦しんでいる中高年が多いこともまた事実である。診断の結果が人生好転のきっかけになることもあるだろう。正解はわからない。個々の事情さまざま、難しい問題だと思う。
ところでドドンゴさんに「なぜドドンゴなのか?」を聞いてみた。恰幅のいいドドンゴさん、本編中でドドンゴとともに登場するミイラ人間には似ていないと思うのだが。
「その怪獣(の造形)が好きなのもありますけど、ドとかゴとか(濁音が)好きなんですよ。なんかワクワクする」
なかなか面白い感性、確かに怪獣は濁音が多い。濁音が好きなのだろうか。人によって琴線に触れる部分はいろいろだが、なんとなくわかる気がする。筆者も「阿毘達磨大毘婆沙論」(あびだつまだいびばしゃろん・説一切有部の論書)とか、スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(スリランカの首都)といった濁音の多い長い単語が好きだ。妻は「ナパ・キャットワンチャイ」や「チャチャイ・チオノイ」などタイのボクサー(ボクシング好きの筆者が教えた)の名前がなぜかツボらしい。拗音が好きなのだろうか。この辺は古くネット掲示板やテレビ番組『トリビアの泉』で有名になった「ニャホニャホタマクロー」(ニャホ・ニャホ=タマクロー、ガーナの元サッカー協会会長)の響きに惹かれた当時のユーザー、視聴者と同じようなものか。誰しもそんな「引っかかる」タームはあるだろう。こうした感性も、なにか病名や症候名がつくのだろうか。
「ポンコツな自分も自分と思ってます。いまとなっては偏差値30で怪獣ばかりの頭も悪くないって思ってますよ」
過去はどうあれ、現状は理解ある仕事や親に恵まれたという余裕もあるのだろう。ドドンゴさんは絶対的な意味では幸せだと思う。「みんな何らかの病名の一個くらいはつくよ」とは知人の精神科医の話だが、それが生活する上で支障をきたすか、本人が苦しんでいるか否かが「障害」における定義の一つかもしれない。であるなら、障害の要因は社会の側にもあり、家族含めた個々の人間関係にもある、ということだろうか。社会全体に余裕がなくなっているコロナ禍、他者にまで気遣うのは難しいが、有事こそ心の余裕を取り戻す機会とも言える。ドドンゴさんには困った部分があるし、今後も会社の理解が続くかどうかは不透明だが、周囲に心の余裕と理解があれば、こうして社会人としてやっていけるのは事実だ。
「変わった人」も時と場所によっては幸せになれる。幸せになれる場所は必ずある。いつぞや流行った「置かれた場所で咲きなさい」という言葉、筆者は嫌いだ。どんな人でも必ず咲ける場所はある。自分のままでいられる場所がある。それは苦しい場所ではないし、他人に置かれる場所でもない。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。全国俳誌協会賞、日本詩歌句随筆評論協会賞評論部門奨励賞受賞。『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社)、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)、『評伝 赤城さかえ 楸邨、波郷、兜太に愛されたコミュニスト俳人 』(コールサック社)6月刊行予定。