存在感は最後まで健在だった(1987年、時事)
(コンサートの前年、ひばりが最初に入院した時期には、二人と親交のあった鶴田浩二、石原裕次郎という昭和の大スターが相次いで亡くなっている。ひばりにとって、それも不死鳥コンサートにかける決意の背景にあったのではないか?)
裕次郎さんとは家が近かったですから、亡くなった時に、実はひばりさんと「ゆうちゃんちに行って死に顔を見よう」と出かけて行ったんです。まだマスコミも誰も詰めかける前で、(夫人の)まき子さんしかいない家で「本当のゆうちゃんの死に顔」を二人で見たんですよ。
東京ドームのコンサートの後、ひばりさんの最後の曲となった『川の流れのように』(1989年1月リリース)についてこんなことを言っていたんです。「メイコ、とてもきれいな曲なんだけど、なんだか死んでいくような歌じゃない?」って。私は嫌なこと言うなあと思ったんですよね。
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『川の流れのように』は150万枚を売り上げる大ヒットを記録し、その年の日本レコード大賞で特別栄誉歌手賞を受賞する。が、その時すでに、ひばりはこの世にいなかった。はかなくも劇的だった「ひばり復活」について中村は、「世間やファンにとっては『不死鳥コンサート』かもしれません。でも、私はつらくて、今もあのコンサートの映像は見ることができないんです」と語った。