──「写真を撮るなんて無理」な状態から、最初の一枚を撮ったきっかけは?
福島:なまじカメラをやっていた人間として、今自分が、まだ誰も目撃していない重要な現場を目撃している、という自覚はあったので、撮りたい気持ちが募っていったんです。でも勇気がなくて、「写真を撮っていいですか」と言い出すまでに、一年かかりました。一枚撮って、もう引き返せないと思いましたね。撮るからにはこの現実を世に出さなければいけないという使命感を感じた。ドキュメンタリー写真を撮りたいとか、社会に問題定義したいという気持ちがあったわけではなく、「自分が受けた衝撃をそのまま外に出さないといけない」と。僕にとって写真を撮るってそういうことなんです。
おじいちゃん、おばあちゃんを「かわいそうな人」にしてしまった罪悪感
──福島さんの写真には、被写体である老人たちとの間の信頼関係が感じられます。それはどのように築かれたのでしょうか。
福島 カメラを下げていくことによって、お客さんとのコミュニケーションは密になっていきました。写真って僕のパーソナルな部分なので、そこを開示することで、お客さんとの関係も深く、ウエットなものになっていったんです。お客さんもプライベートなことを話してくれるようになったり、家にある色んなものを見せてくれたり。弁当屋の僕と、お客さんとしての高齢者は、すごく仲がいいんです。みんな僕に会えるのを楽しみにしてくれている。ところがいざ写真を撮ると、非常に冷たいものになってしまう……。次第に、精神的に参っていきました。
──「冷たい」写真になる。それはなぜだったのでしょうか。
福島:すべて今になってわかることですが、ファインダーをのぞくと、お客さんたちを「独居老人」として見てしまっていたんです。弁当屋としての僕は、目の前の「〇〇おじいちゃん」「〇〇おばあちゃん」という一人の人間と向き合って仲良くしゃべっているんですが、写真家としてのスイッチが入ると、「独居老人」という枠組みのなかに彼らを入れてしまっていた。そういう視点で撮っていたから、写真が冷たいものになっていたんだと思います。
──「独居老人」という枠組みのなかには、「かわいそうな人」「憐れな人」という視点が入っていたのでしょうか?
福島:そういう視点があったことを、写真展を開いて気づかされました。お客さんが写真の前で涙を流すんです。10分、20分と立ち止まって。それはある意味でうれしい。人の心を動かせたというのは写真家としてはうれしいことなんですが、それとは比べものにならないほど、罪悪感に苛まれました。あれだけ仲の良かったおじいちゃん、おばあちゃんを、「かわいそうな人」として世に出してしまったんだと。もう写真を撮っちゃいけないと思って、写真も、弁当配達もやめました。