雅子さまは幼少期を冷戦下の旧ソ連で過ごされた(1967年1月、モスクワ。写真/宮内庁提供)
そうした「中立」の姿勢こそ、世界に類い稀な、日本の皇室の特別な力と言えるだろう。垣間見えたシーンがある。即位の中心的儀式「即位礼正殿の儀」でのことだ。
世界中から出席した要人の中に、イスラエルのベンアリ駐日大使と、パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長がいた。イスラエルとパレスチナは長らく緊張関係にあり、両者の代表が同席する機会は、和平交渉や国連総会など“政治の場”に限られる。
「日本の天皇の即位を祝う場に同席したことは、かなり特別なことです。終戦後、昭和天皇、上皇陛下も国同士の争いごとにかかわらず、世界平和に尽くされた。その姿勢があったから、各国は日本の皇室を尊敬の念を持って見ています。だからこそ、両国から要人を迎えることができた」(政府関係者)
「ロシア語で寝言をおっしゃった」
ロシア軍は、ゼレンスキー氏の暗殺を何度も試みたという。その恐怖と闘いながら、カメラの前でウクライナ国民を鼓舞し続けるゼレンスキー氏は、無精ひげが伸び、時折疲れた様子も見せていた。痛ましい姿に複雑な思いを抱かれているのは、ほかならぬ雅子さまだろう。雅子さまは、幼少期をソ連時代のモスクワで過ごされた。父・小和田恆さんがモスクワにある日本大使館の一等書記官に任命されたのは、雅子さまが1才8か月の頃だった。
「移り住んだアパートの前にあった広場で、すぐに現地の子供たちと遊び始めるほど、モスクワ暮らしに順応されたといいます。初めて覚えたロシア語は“話す”という意味の“ガバリッチ”。しばらくすると、ロシア語でのコミュニケーションは何不自由ないほどだったそうです」(皇室ジャーナリスト)
当時、「ロシア語で寝言をおっしゃった」という逸話まで残るほどだ。
「保育園では木から滑り落ちて擦り傷を作っても、泣き言を言わないお強いお子さまだったといいます」(前出・皇室ジャーナリスト)
旧体制下のモスクワは、決して物質的に豊かだったわけではない。また、冷戦時代のソ連はアメリカと激しく対立していた。アメリカと同盟を結ぶ日本は、言わば敵方だ。そんな環境のなかで幼い雅子さまは成長された。3年弱のモスクワ生活は、雅子さまに大きな影響を与えただろう。
一方、日本とウクライナの関係は、ウクライナが1991年に旧ソ連から独立し、翌1992年に外交関係を樹立したところから始まった。遡って、1965年には黒海に面する港湾都市オデッサと横浜市が、1971年には首都キエフと京都市が、姉妹都市関係を結んでいる。
独立後、ウクライナは民主化や経済活動の活性化を進めてきた。日本はこれまで経済支援のほか、下水処理施設の改修や空港の拡張、IT技術の輸出など、インフラ整備の面でも支援を行ってきた。たしかに、前述した「即位の礼」での両陛下とゼレンスキー夫妻との対面は、時間にしてわずかなものだった。
「わざわざ日本にまで足を運び、即位への祝意を伝えてくれたゼレンスキー氏のことを、両陛下は心に留められているに違いありません。その相手が、悲惨な戦禍に巻き込まれ、身命を賭して戦おうとしていることには、悲しみも覚えていらっしゃることでしょう。特に雅子さまは、両国に親しみをお持ちでしょうから一層おつらい気持ちを抱かれているのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)